第41話「大事な話があります」
閉店は、五日後だという。
オゼクの息子は、それだけ伝えて帰っていった。慣れない使いで、言い終えると逃げるように背を向けた。父親に似ていない、背の高い男だった。
五日。
しげるは、その五日を持て余していた。
行こうとは思う。毎朝思う。だが、行って何を言えばいいのか分からない。すみませんも違う。お世話になりましたも違う。あの店の五十年に対して、自分が並べられる言葉が一つもなかった。
だから、行かなかった。
◇
街は、秋の盛りだった。
治療院の待合は空いている。順番待ちの札は、朝に配れば昼には余る。冒険者組合の掲示板は依頼で埋まり、若い請負士たちが上の等級の仕事を取り合っている。西門の外では、季節労働者が畑の刈り入れに出ていた。
しげるは、その街を歩いた。
肉屋の親父が手を挙げた。八百屋の女房が野菜を一つおまけしてくれた。石畳を走ってきた子供が「魔術師様だ」と言って、連れの子とはしゃぎながら走り去った。
三十七年間、道で誰かに挨拶されたことなど、ほとんどなかった。
いま、この街の半分くらいが、自分の顔を知っている。
悪い気分ではなかった。
悪い気分ではないのが、少しだけ後ろめたかった。
◇
商業組合の前でエディナに会ったのは、閉店の三日前だった。
「シゲルさん」
彼女は、いつもと様子が違った。
帳面を抱えていない。手ぶらだった。それだけで、しげるは妙に落ち着かなくなった。
「どうしました?」
「あの、その」
エディナが口ごもるのは珍しかった。数字の話なら早口で喋る人が、言葉を探している。
「今度のお休み、いつですか」
「え、明後日ですけど」
「明後日」
彼女は少し考えて、それから、思い切ったように言った。
「その日に、少しお時間をいただけませんか」
「はい、全然」
「……大事なお話があるので。二人で」
しげるの頭の中が、真っ白になった。
「二人で?」
「はい。組合の外で。人のいないところで、お話ししたくて」
エディナは、心持ち顔を赤くしていた。
たぶん、頼み事をするのが気まずいのだろう。彼女はそういう人だ。人に頼るのが下手で、宿代の立て替えを返してもらうときですら帳面に線を引いた人だ。
そう、たぶんそうだ。
そうなんだけど。
「はい。……はい。大丈夫です」
「よかった。では、昼の鐘に、広場の噴水のところで」
エディナは頭を下げて、組合の中へ戻っていった。
しげるは、そこに立っていた。
しばらく立っていた。
◇
その日から、閉店のことを考えなくて済むようになった。
考える隙がなかった、というほうが正しい。
夜、灰鹿亭の部屋で、しげるは服を並べた。
持っている服は少ない。麻のシャツが二枚。革の胴着。厚手のズボン。あとは道具袋の底に畳んだ、半袖のワイシャツ。
胴着は違うだろう。仕事の格好だ。
シャツは、袖口がもう擦れている。
「……買うか」
翌朝、しげるは中央区の仕立屋に行った。
既製の服を並べた店で、若い女の店員がついてくれた。
「贈り物ですか」
「い、いえ!自分のです!」
声が裏返った。
店員は表情を変えずに「では、こちらなど」と落ち着いた色の上着を出してきた。
しげるは鏡の前に立った。
鏡の中に、三十七歳の男がいた。腹は出ている。猫背も直っていない。だが、この三か月で少し日に焼けて、顔つきが変わった気もする。気がするだけかもしれない。
「いい服です。よくお似合いですよ」
「そ、そうですか」
買った。
ついでに、髪も切りに行った。
「短くしすぎないでください」
言ってから、自分で驚いた。
三十七年生きて、髪型に注文をつけたのは初めてだった。
◇
その日の夕方、しげるはユハンを捕まえた。
治療院の裏手で、薬の納入の帰りだった。
「ユハンさん。ちょっと相談が」
「はい、なんでしょう」
「あの、女の人が、大事な話があるって言うのは」
しげるは咳払いをした。
「どういうときですか」
ユハンは、真剣な顔で考え込んだ。
「大事な話……」
「はい」
「僕、神殿育ちなので、女性の方とそういう話をしたことがなくて」
「あ、そうですよね。すみません」
「いえ、待ってください。考えます」
少年は、本気で考え始めた。
「大事、というからには、重要度が高いということですよね」
「はい」
「二人で、というのは、他の人に聞かれたくないということです」
「はい」
「他の人に聞かれたくない重要な話……」
ユハンは腕を組んだ。
「借金の相談でしょうか」
「借金」
「あるいは、組合の内部の不正の告発とか。エディナさんは帳簿を扱っておられますから、何か見つけてしまったのかもしれません」
「あー……なるほど」
しげるは頷いた。
頷きながら、それは絶対に違うと思っていた。
思っている自分が、少し嫌になった。
「ありがとうございます。参考になりました」
「お役に立てましたか」
「はい、すごく」
二人は真面目に頭を下げ合って別れた。
◇
その夜、灰鹿亭で夕食をとっていると、メリゼが皿を下げに来た。
「あんた、髪切ったね」
「あ、はい」
「服も買ったんだって?仕立屋のお嬢さんが言ってたよ」
しげるは麦酒を吹きそうになった。
「な、なんで」
「この街は狭いんだよ」
メリゼは、にやりともせずに言った。にやりともせずに、目だけが笑っていた。
「まあ、いいことがあるといいねえ」
「い、いえ、そういうのじゃ」
「はいはい」
女将は皿を持って厨房へ戻っていった。
しげるは麦酒を飲んだ。顔が熱かった。麦酒のせいではなかった。
◇
当日。
しげるは、昼の鐘の四半刻前に広場に着いた。
新しい上着は、少し硬かった。糊の匂いがした。
噴水の縁に座って待つ。秋の日差しが石畳に落ちて、鳩が歩いている。
昼の鐘が鳴った。
鳴り終わる頃、通りの向こうからエディナが来た。
彼女も、いつもと違う格好だった。仕事着ではない。少し明るい色の上着に、髪をまとめている。
しげるは立ち上がった。
立ち上がってから、気づいた。
エディナの隣に、男がいた。
「シゲルさん、お待たせしました」
「あ、はい」
「あの、こちら、うちの組合の」
男が一歩前に出て、頭を下げた。
二十代半ばくらいだろうか。背はしげるより少し高い。日に焼けていて、真面目そうな顔をしていた。
「タルグと申します。商業組合で穀物を扱っております」
「……ど、どうも。豊島しげるです」
「お噂はかねがね。採石場の一件は、うちの組合でも語り草になっております」
実直な声だった。世辞を言っている感じがしない。
しげるは、握手をしながら、頭の中で何かがゆっくり傾いていくのを感じていた。
◇
三人で、広場に面した店に入った。
果実水を頼んで、エディナが本題を切り出した。
「まず、お仕事のお話からで、すみません」
「はい」
「シゲルさんのお薬の取引を、商業組合の記録に載せませんか」
エディナは、卓の上に紙を出した。手ぶらだったのは、この一枚だけを持ってきていたからだ。
「今、あの取引は市政庁の帳面にしかありません。市の書庫と会計に控えがあるだけです」
「はい」
「それだと、市の担当の方が替わったら、経緯が分からなくなります。書面は残っても、どういう話し合いで決まったかは残りません」
タルグが引き取った。
「商業組合の記録は、取引の経過も残します。誰と誰が、いつ、何を話して、どう決めたか。……我々の商いは、そこが揉めると全部崩れますので」
「二人で、書式を作ってきました」
エディナが紙を滑らせた。
しげるは、その紙を見た。
欄がいくつかあった。品目。数量。価格。決定の経緯。相手方。
真面目に作られていた。二人が仕事の合間に、たぶん何日かかけて作ったものだった。
「……ありがとうございます」
しげるは言った。
「でも、大丈夫です」
「え?」
「市の人が、ちゃんと管理してくれてるので。書面もありますし、写しももらってます」
しげるは笑った。
「二重に書くと、かえってややこしくなりませんか?」
エディナは何か言おうとして、口を閉じた。
それから、「……そうですね」と言った。
タルグは静かに紙を引き取り、丁寧に畳んだ。
しげるは、その一往復を、五秒ほどで忘れた。
◇
「それで、もう一つ、お話が」
エディナが、姿勢を正した。
しげるも、なぜか背筋を伸ばした。
「私たち、来年あたり、所帯を持とうかと話していて」
噴水の音が、店の中まで聞こえた気がした。
「……はい」
「まだ何も決まっていないんですけど。ご報告だけは、先にしておきたくて」
エディナは、少し照れていた。
「シゲルさんは、私の友達なので」
しげるは、笑った。
自分でも驚くほど、すぐに笑えた。
「おめでとうございます!」
「あ、ありがとうございます」
「いや本当に、あの、よかったです、本当に!」
声が大きすぎた。
隣の卓の客が振り返った。
しげるは慌てて座り直して、それから、また笑った。
「タルグさん、いい人そうで、よかったです」
「そんな、私は」
「エディナさんは、その、すごくちゃんとした人なので。ちゃんとした人には、ちゃんとした人がいいと思います」
言いながら、自分が何を言っているのか分からなくなった。
エディナが小さく笑った。タルグが頭を下げた。
「エディナが世話になっています」
いい男だった。
いい男なのが、いちばん困った。
◇
別れ際、タルグは崩落救助の話を聞きたがった。しげるは石の籠の話をした。タルグは真剣に聞いて、「私は数字しか扱えませんので、そういう力は羨ましい」と言った。
二人は並んで帰っていった。
しげるは、その背中を見送った。
新しい上着の襟が、首に少し当たった。
◇
「よう、英雄殿」
帰り道の角で、サルカとフェルツが待ち構えていた。
どう見ても、待ち構えていた。
「な、なんですか」
「で、どうだった。大事な話は」
「……ご結婚されるそうです」
「ほう」
サルカは、真顔で頷いた。
フェルツが、一拍おいて言った。
「その服、新しいな」
サルカが吹き出した。
腹を抱えて、噴水の縁に手をついて、笑った。
「あんた、あれで隠せてると思ってたのか」
「隠すって、俺、別に」
「三日前から隊の全員が知っとる。ネシェルも知ってる。宿の女将も知ってる。……知らんのはユハンだけだ」
「ユハンさんは」
「あいつ、本気で借金の相談だと思ってるぞ」
しげるは、顔を覆った。
「将来いい神官になるぞ、あいつは」フェルツが真顔で言った。「人の心が分からんところが特にな」
「言ってやるな」
「事実だ」
しげるは笑った。
笑うしかなかった。笑えるくらいには、大人だった。三十七年、こういう恥のかき方すらしてこなかった男が、今日は堂々と恥をかいた。
「一杯おごれ」サルカが言った。
「なんで俺が」
「新しい服を着てきた男の義務だ」
◇
夜。
灰鹿亭の部屋で、しげるは上着を脱いだ。
畳んで、道具袋の底に仕舞おうとした。
袋の底には、いつものものが入っている。畳んだ半袖のワイシャツ。その上に、二つに折った契約書の控え。
しげるは、上着をその隣に置いた。
「……別に、そういうんじゃないんだけどな」
誰にともなく言った。
言ってから、少し笑った。
嘘だ。少しは、そういうのだった。ほんの少しだけ。
でも、たぶん、それだけだ。あの人が笑っているならそれでいい。タルグさんはいい人だった。数字の話ができる人だ。あの人には、ああいう人がいい。
しげるは灯りを消して、寝台に横になった。
今日は、楽しかった。
恥はかいたが、楽しかった。
そういえば、今日は一度も薬のことを考えなかったな、と思った。
三か月ぶりだった。ずっと頭の隅にあったものが、丸一日、消えていた。
いい一日だった。
目を閉じかけて。
しげるは、目を開けた。
――明後日、と言った。
三日前、エディナに休みを訊かれて、自分でそう答えた。明後日ですけど、と。
じゃあ、五日後は。
閉店は、五日後だと言われた。あれは、何日前だ。
しげるは、指を折った。
折って、止まった。
「……明後日だ」




