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第40話「供給義務」

 市政庁から使いが来たのは、三日後だった。


 用件は「取り決めの正式化について」とだけ書いてあった。


    ◇


 応接室には、レグナードのほかにもう一人いた。


 紺の制服を着た若い男で、卓の端に座り、書類の束を抱えている。


「市政庁書記のゼクトです」


 男は簡潔に名乗って、頭を下げた。


 しげるは、その顔をどこかで見た気がした。どこで見たのかは思い出せなかった。


「本日は、これまでの取り決めを書面に整えるお願いに参りました」


 レグナードが切り出した。


「これまでは、月ごとに納入と精算を繰り返してまいりました。都度の書面はございますが、全体を定めたものがございません」


「はあ」


「市の会計は年で回ります。来期の予算を組むにあたり、薬の項目を確定させる必要がございます。……率直に申し上げますと、シゲル殿との取り決めが口約束のままでは、来期の予算に載せられません」


「載せられないと、どうなるんですか」


「予算がつかなければ、市はシゲル殿にお支払いできません」


 レグナードは静かに言った。


「支払えなければ、治療院は薬を仕入れられません」


 しげるは頷いた。


 筋が通っている。会社でもそうだった。年度をまたぐ取引は、必ず契約の形にしろと言われていた。口約束のままだと、担当が替わった瞬間に消える。


「分かりました。何をすればいいですか」


「書面をご確認いただき、ご署名を」


 ゼクトが束から一枚を抜いて、卓の上を滑らせた。


    ◇


 紙は二枚だった。


 しげるは一枚目を手に取った。


 文字は読める。《通響》のおかげだ。三か月前は看板の文字が読めることに感動していたのに、今はもう当たり前になっていた。


 書き出しは形式的な文言だった。イグゼル市政庁と、請負士シゲルとの間で、以下のとおり定める。


 第一条。品目。上級回復薬。


 第二条。買い上げ価格。一本につき銀環十枚。


 第三条。月間の納入数。二百本。


 第四条。納入日。毎月の十日および二十五日に分納。


 しげるは、順に目で追った。


 どれも、今やっていることそのままだった。値段も、数も、日にちも。新しいことは何も書かれていない。


 二枚目に移った。


 第五条。品質。従前の水準を維持するものとする。


 第六条。市は、必要に応じて納入数の見直しを協議できる。


 第七条。


 ――前条までに定める供給義務の履行につき、


 しげるの目が、そこで止まった。


 供給義務。


 言葉の意味は分かる。供給する義務。約束したものを、約束したとおりに納める義務。当たり前の話だ。


 紙屋に紙を頼めば紙屋は納める。それと同じことが書いてあるだけだ。


 しげるは、条文の続きを読んだ。


 ――前条までに定める供給義務の履行につき、シゲルはこれを誠実に果たすものとする。やむを得ざる事由により履行が困難となる場合、シゲルは事前に市へ申し出るものとし、市はこれを検討する。


 誠実に果たす。事前に申し出る。市が検討する。


 それだけだった。


 罰則も、期限も、違約の定めも、どこにも書いていない。


「あの」


 しげるは顔を上げた。


「これ、もし、俺が作れなくなったら、どうなるんですか」


「事前にお申し出いただければ、協議いたします」


 レグナードは即答した。


「作れなくなる、というのは、どのような場合を想定しておられますか」


「え、いや、想定っていうか」


 しげるは口ごもった。


 ユハンが言っていたことが、頭にあった。病気になるかもしれない。怪我をするかもしれない。故郷に帰るかもしれない。


 だが、自分にはどれも当てはまらない。病気にならないし、怪我もしない。故郷には帰れない。


 じゃあ、何が起きたら作れなくなるのか。


 思いつかなかった。


「……いえ、たぶん、大丈夫です」


「そうですか」


 レグナードは頷いた。


「もちろん、こちらの条文は形式的なものです。市が請負士に強いることのできる義務など、実際にはほとんどございません。ご不安であれば、条文を削ることも検討いたしますが」


「あ、いえ、大丈夫です」


 しげるは首を振った。


 この人は、削ってもいいと言った。


 削ってもいいと言われるということは、大したことが書かれていないということだ。大したことが書いてあるなら、削るとは言わない。


「大丈夫です。そのままで」


 しげるは、そう言った。


    ◇


 筆を借りて、署名した。


 トヨシマシゲル。もう何度目か分からない。書き慣れた自分の名前が、紙の上に乗った。


 ゼクトが二枚を検め、写しを一部作って、しげるに渡した。


「こちらがお控えです。大切に保管ください」


「はい」


「原本は市政庁の書庫に保管いたします。写しは会計にも一部」


 ゼクトは事務的に言った。事務的なのに、どこか丁寧だった。


 しげるは受け取った控えを、二つに折って道具袋に入れた。


「ありがとうございます」


 レグナードは立ち上がって、頭を下げた。


「これで、来期以降も治療院に薬が届きます。市を代表して、御礼を申し上げます」


    ◇


 市政庁を出ると、秋の風が冷たかった。


 もう夕方だった。日が短くなっている。


 しげるは大通りを歩きながら、なんとなく、悪くない気分だった。


 書面になった。


 自分の名前が、市の書庫に保管される。三十七年間、書類の中では常に「担当者」でしかなかった男が、今は片方の当事者だ。


 あの応接室で、市政代行官と対等に卓を挟んで、署名した。


 悪くない。


 そう思って、それから、少しだけ引っかかった。


 あの条文。


 ――やむを得ざる事由により履行が困難となる場合。


 なんで、あんな条文が入っていたのだろう。


 作れなくなる場合を、市は想定していたということだ。自分は思いつかなかったのに、書く側は思いついた。


 役所の書式だから、たぶん、どの契約にも同じ条文が入っているのだろう。紙屋との契約にも、石工との契約にも。


 そういうものだ。


 しげるは、それ以上考えなかった。


    ◇


 その夜。


 灰鹿亭の部屋で、しげるは道具袋の中身を出した。


 薬の瓶を補充するためだった。二百本のうち、隊の分と手持ちの分を分けておく。


 袋の底から、二つに折った紙が出てきた。


 今日の控えだ。


 しげるは紙を広げて、もう一度眺めた。


 条文はやはり四角い言葉で並んでいた。何度読んでも、書いてあることは変わらない。


 しげるは紙を畳んで、袋の底へ戻した。


 底には、いつものものが入っている。


 畳んだ半袖のワイシャツ。


 紙は、その上に落ちた。


 薄い紙が、布の上でかさりと鳴った。


 それだけの音だった。


 しげるは袋の口を閉じて、灯りを消した。


 寝台に横になると、すぐに眠くなった。


 今日は、いい日だった気がする。


 誰かに何かを頼まれて、それを引き受けて、名前を書いた。それだけの日だ。


 悪いことは、何も起きていない。


    ◇


 三日後の朝、灰鹿亭に使いが来た。


 南部職人街の、石工の男だった。


 オゼクの息子だと名乗った。父親に似ていない、背の高い、日に焼けた男だった。


「親父から言付けです」


 男は、慣れない口調で言った。


「店を閉める日が決まったので、お伝えするようにと」

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