第39話「誰のせいでもない」
「おい」
声をかけられて、しげるは顔を上げた。
通りの真ん中に突っ立っていた。どれくらいそうしていたのか、自分でも分からなかった。日はもう落ちて、細い道は薄暗くなっていた。
サルカが、荷を担いだ格好で立っていた。
「なんだあんた、その面」
「……サルカさん」
「依頼の帰りだ。近道でここを通った。……で、なんだその面は」
「いえ、あの」
「飲むぞ」
サルカは有無を言わせなかった。
◇
灰鹿亭の隅の卓に、四人が揃った。
サルカが呼びに行ったのか、フェルツとユハンが後から来た。二人とも、しげるの顔を見て何かを察したらしかった。
メリゼが麦酒を運んできて、何も訊かずに戻っていった。
しげるは、話した。
オゼクの店のこと。売家の札。金を出すと言って断られたこと。翁が言った、隣の薬屋の話。
話しながら、自分の声が他人みたいだと思った。
「――それで、俺、何もできなくて」
しげるは、ジョッキを握ったまま俯いた。
「金なら出せるんです。いくらでも。それだけは、俺、できるはずだったのに」
サルカが、ジョッキを卓に置いた。
こつん、と鳴った。
「あんたに訊く」
「はい」
「あんたが薬を出さなかったら、どうなってた」
「え」
「北の村の、あの六つの子。ユハンが連れてった子だ。あの子はどうなってた」
しげるは答えられなかった。
答えは分かっていた。
「死んでるな」
サルカは自分で答えた。
「マルドも死んでる。フェルツの腕は動かん。組合の死人は、去年なら一年で十人か十五人か、そのくらいだ。ヴァレクんとこの若いのが去年みたいに死んで、若いのの妹は嫁入りの支度ができん」
サルカは指を折らなかった。折る必要もなかった。
「オゼクの爺さんは、店を畳んだ。……で、死ぬか?」
「……いえ」
「息子が石工で稼いでるんだろ。畑もある。店賃も要らん。飯は食える」
サルカは、まっすぐしげるを見た。
「なあ。どっちが重い?」
しげるは、何も言えなかった。
言えないまま、胸の奥のどこかが、ほどけていくのが分かった。
救われている、と思った。
この人の言うことは、正しい。数えれば、絶対に正しい。
「……ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはないぞ。事実を言っただけだ」
「はい」
「気に病むのはいい。だが、気に病んで薬を止めたら、今度は死ぬほうが増える。それだけは覚えとけ」
サルカは麦酒をあおった。
しげるも、久しぶりに酒を飲んだ気がした。喉が熱かった。
◇
「サルカの言うことは正しい」
フェルツが言った。
低い声だった。
「一つも間違っとらん。数えれば、そのとおりだ」
「だろ」
「ただし」
弓士は、ジョッキの縁を指でなぞった。
「それは、天秤の話だ」
サルカが眉を上げた。
「天秤で何が悪い」
「悪くない。俺も毎回天秤にかけとる。依頼を受けるかどうかを、報酬と危険で毎回計っとる。それが仕事だ」
フェルツは顔を上げた。
「だがな。天秤に乗せていいのは、乗せる権利のある奴だけだ」
卓が静かになった。
「……権利って、なんだ」
「知らん」
フェルツはあっさり言った。
「知らんが、少なくとも俺にはない。俺は、オゼクの爺さんの五十年をこっちの皿に乗せて、子供の命を反対の皿に乗せて、どっちが重いか計る権利を、誰からももらっとらん」
「じゃあ誰が計るんだ」
「それも知らん」
フェルツは、しげるを見た。
責める目ではなかった。困っている目だった。
「ただ、計った奴は、計った責任を負う。……それだけは分かる」
しげるの手の中で、ジョッキが重くなった。
◇
「ユハン」
サルカが呼んだ。
「お前はどうなんだ。神官さんの意見を聞かせろ」
ユハンは、卓の上に置いた自分の手を見ていた。
昨日、神殿の前庭で、師の後ろに立って床を見ていたときと同じ姿勢だった。
「……僕は」
少年は、口を開いた。
開いて、閉じた。
また開いた。
「僕は、どちらも選べません」
声が震えていた。
「子供が助かるのは、絶対に正しいです。それは間違いようがないんです。あの子が熱を下げて、水を飲んで、母親が泣いた。あれが間違いだなんて、誰にも言わせません」
「じゃあ、それでいいだろ」サルカが言った。
「よくないんです」
ユハンが、顔を上げた。
目が赤かった。
「昨日、陳情に来た人たちの顔を、僕は見ました。前庭で。……あの中に、去年、僕に薬を分けてくれた人がいたんです」
しげるは息を呑んだ。
「治療院の在庫が切れて、患者が保たなくて、僕が走って行って、頭を下げて。あの人は、店の分を一本、原価で分けてくれました。あの日、それで一人助かってます」
「…………」
「その人が、昨日、石畳に頭を下げてました。僕たちに」
ユハンは唇を噛んだ。
「サドレク師は、救える命を救わないのは殺すのと同じだと言いました。僕もそう思います。心から思います。……でも」
少年は、絞り出すように言った。
「薬を作る人がいなくなったら、僕たちは、これから先の命を、誰に頼るんですか」
誰も答えなかった。
「今は、シゲルさんがいます。だから足りてます。でも、シゲルさんがいなくなったら?」
ユハンは、はっとしたようにしげるを見た。
「あ、いえ、そういう意味じゃなくて!すみません!」
「いや、いいです」
しげるは首を振った。
「続けてください」
「……病気になるかもしれない。怪我をするかもしれない。故郷に帰るかもしれない。人は、いつまでも同じ場所にいるとは限りません」
ユハンは、また手を見た。
「そのときに、街に薬を作れる人が一人もいなかったら。……作り方を知っている人が、みんな別の仕事に移っていたら」
「…………」
「救える命を救わないのが殺すのと同じなら」
ユハンは言った。
「これから先の、まだ生まれてない誰かの命を救えなくなるのは、何なんですか」
卓の上で、灯りの芯がじじと鳴った。
しげるは、何も言えなかった。
サルカも、フェルツも、何も言わなかった。
「……すみません」
ユハンは俯いた。
「答えが、出ないんです。二か月、ずっと考えてます。神殿でも考えて、寝る前も考えて。でも、どっちを選んでも、誰かが死ぬんです」
「ユハン」
サルカが、少年の頭に手を置いた。
「お前、十九だろ」
「はい」
「十九で、そこまで考えたなら上等だ」
サルカは、乱暴に髪をかき混ぜた。
「私は三十だが、そこまで考えたことはなかった。……悔しいから、今日から考える」
「サルカさん」
「泣くな。酒がまずくなる」
「泣いてません」
「泣いてるだろうが」
フェルツが黙って、ユハンのジョッキに水を注いだ。
◇
その夜、しげるは自室に戻ってから、薬を作った。
二百本のうち、まだ作っていなかった分だ。明日には治療院へ運ばなければならない。
瓶を並べて、手をかざす。
赤金色が満ちていく。
いつもと同じだった。半刻もかからない。疲れもしない。
なのに今夜は、手が少し重かった。
重い、というのは、たぶん気のせいだった。魔力は減らない。腕も疲れない。
でも、確かに重かった。
しげるは、五十本目の栓を閉めて、床に座り込んだ。
誰のせいでもない。
サルカはそう言った。フェルツも、ユハンも、翁も、テルドも、みんな似たことを言った。
誰も悪くない。
だったら、誰が、これを止めればいいんだろう。
答えは、出なかった。




