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第38話「金では買えないもの」

 しげるは、札を見たまま動けなかった。


 『売家』


 墨がまだ黒い。今日か、昨日か。書いてすぐ下げたのだろう。


 店の中から、物を動かす音がした。


 しげるは戸口をくぐった。


    ◇


 棚が、空だった。


 三方の壁を埋めていた壺も、硝子の小瓶も、紙包みの束も、ほとんどが消えていた。残っているのは下の段の数個と、引き出しがいくつか。文字を書いた札だけが、空の棚に残っていた。


 床に木箱が三つ置いてあって、その一つに、オゼクが身をかがめていた。


「おや」


 オゼク翁は顔を上げた。


 いつもと同じ顔だった。


「シゲルさんか。悪いな、今日は茶が出せん。道具を仕舞ってしまった」


「オゼクさん」


 しげるの声が掠れた。


「外の、あれ」


「ああ、札か」


 翁は木箱の縁に手をついて、ゆっくり立ち上がった。腰を伸ばすとき、少しだけ顔をしかめた。


「畳むことにしたよ」


「…………」


「息子とも話してな。この歳だ。潮時ってやつだろう」


 翁は棚のほうを見た。空の棚を、ぐるりと。


「五十年やった。いい加減、飽きるわ」


 笑った。


 からりとした、いつもの笑い方だった。


 しげるは、その笑い方が、この日ほど苦しかったことはなかった。


    ◇


「あの」


 しげるは、口を開いた。


 開いてから、言葉が出てこなかった。


 言うべきことは決まっていた。ここへ来る道で、それだけを考えてきた。


「前にも、言いましたけど」


「うん?」


「お金なら、出せます」


 翁の眉が、少し上がった。


「俺、いま、本当に稼いでるんです。市の仕事で、毎月まとまった額が入ってて。……使い道もないんです」


 嘘ではなかった。


 金環三百二十枚の預かり証は、まだほとんど手つかずだ。それとは別に、薬の代金が毎月入ってくる。使うのは宿代と食事代と、依頼の道具代くらいだ。


 そして、その気になれば――もっと創れる。


 金塊なら、いくらでも。


「店賃はいらないって言ってましたよね。だったら、仕入れの分と、暮らしの分と、その、必要なだけ。毎月でも」


 しげるは、早口になっていた。


「それで店を続けてください。お願いします」


 言い終えて、頭を下げた。


 しばらく、返事がなかった。


 顔を上げると、翁はしげるを見ていた。


 怒ってはいなかった。呆れてもいなかった。


 ただ、少し困った顔をしていた。


「あんた、本当にいい人だな」


 翁は言った。


「……前も、そう言われました」


「二度言うくらいには思っとるんだよ」


 老人は木箱に腰を下ろした。手招きされて、しげるも空いた木箱に座った。


「シゲルさん。あんたの言うとおりにしたとする」


 翁は、空の棚を見ながら言った。


「毎月、あんたから金をもらう。それで仕入れをする。上級薬を三本仕入れて、棚に並べる」


「はい」


「並べて、それで?」


「……え」


「誰が買いに来る」


 しげるは、口を開けた。


 開けたまま、何も出てこなかった。


「治療院で十五で買えるものを、うちで八十で買う人はおらん。いや、八十じゃなくていい。あんたの金があるなら、うちも十五で売れる。十四でも十でも売れる」


 翁は指を折った。


「そしたら、どうなると思う」


「……お客さん、来ますよね」


「来るだろうな。安いんだから」


 翁は頷いた。


「そんで、隣の通りの薬屋が潰れる」


 しげるの背中が、冷たくなった。


「あそこは香草屋も兼ねとるから、まだ保っとる。だがうちが十で売り始めたら、あそこも終わりだ。あの店は、婆さんが一人でやっとる」


「……そんな」


「わしが金をもらって、安く売って、生き残る。隣が潰れる。……それは、なんだね」


 翁は、静かに訊いた。


「それは、薬屋なのかね」


 しげるは、答えられなかった。


 答えられないまま、膝の上で拳を握っていた。


「金の問題じゃないんだよ」


 翁は言った。


「あんたは、金を出せば元に戻ると思っとる。だがな、わしがこの店で何をしとったかというと、金をもらって薬を売っとったわけじゃないんだ」


「…………」


「腹が痛いという人の話を聞いて、どのくらい痛むのか、いつからか、飯は食えとるか、そういうことを訊いて、それで合うものを出しとった。合わんかったら次を考えた。……それが仕事だった」


 翁は自分の手を見た。


 薬草の汁で茶色く染まった、皺だらけの手だった。


「その相手が、おらんくなった。それだけの話でな」


「でも、それは、俺が」


「あんたは関係ない」


 翁は、あっさりと言った。


「街に安い薬が入った。買えんかった人が買えるようになった。それでうちが要らんくなった。……順番はそれだけだ。誰が悪いという話じゃない」


 しげるは、俯いた。


 言えばいい、と思った。


 俺です。あの薬は俺が作っています。魔法で、半刻で、二百本。あなたの五十年を、俺は半刻で。


 言えば、この人は俺を責める。責めてくれる。


 責めてくれれば、楽になる。


 その考えが浮かんだ瞬間、しげるは自分に吐き気がした。


 楽になりたいのか、俺は。


 この人に責めさせて、俺が楽になるために、それを言うのか。


「オゼクさん」


「うん」


「……俺、何かできることは」


「ないよ」


 翁は笑った。


「いや、一つだけあるか」


「なんですか」


「達者でな」


 老人は木箱から立ち上がった。


「あんた、まだ若いんだ。まだ、いくらでも仕事ができる。……人の役に立つ仕事をしなさい。それだけでいい」


 しげるは、返事ができなかった。


    ◇


 店を出るとき、翁が呼び止めた。


「そうだ。閉める日が決まったら、使いをやる」


「え」


「最後の日に、来てくれんか」


 翁は、少しだけ照れたように言った。


「客が来ん店を五十年やっとると、な。最後の日くらい、誰か来てほしいもんだ」


「……行きます」


「そうか。すまんな」


    ◇


 外に出た。


 日は落ちかけていた。細い道の西側だけが、赤く染まっていた。


 しげるは歩き出した。


 三歩歩いて、止まった。


 通りの真ん中だった。荷車が通れば邪魔になる場所だった。


 それでも、動けなかった。


 俺は、金を出せば元に戻ると思っていた。


 この三か月、困っている人を見るたびに、そう思ってきた。金なら創れる。物なら創れる。だから、たいていのことは自分が何とかできる。そう思っていた。


 でも、あの人が失うのは金じゃなかった。


 腹が痛いと言いに来る人だった。四代の顔だった。待つ仕事だった。


 それは、創れない。


 しげるは、自分の両手を見た。


 水を出した手だった。パンを出した手だった。金塊を出した手だった。壁を出して、十三人を掘り出して、二百本の薬を作った手だった。


 この手で、あの棚を埋め直すことはできない。


 どれだけ創っても、できない。


 喉の奥から、声が出た。


 自分でも思っていなかった声だった。


「……俺のせいだ」

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