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第37話「陳情」

 陳情は、その日の昼に行われるという。


「見に行ってもいいですか」


「……止めません」


 ユハンはそう言った。止めない、という言い方に、いろいろなものが混じっていた。


    ◇


 大神殿の正面には、広い石畳の前庭がある。


 しげるは、前庭に面した回廊の柱の陰に立っていた。ユハンが「ここなら見えます」と教えてくれた場所だった。神官の出入りに使う脇の回廊で、正面からは目立たない。


 昼の鐘が鳴った。


 鳴り終わる前に、彼らは来た。


 十数人だった。


 思っていたより、ずっと少なかった。


 先頭を歩いているのは白髪の男で、その後ろに、年配の男女が続いていた。若い者は二人か三人しかいない。服装は普段着に近かった。前掛けを外してきただけ、という格好の者もいた。


 誰も、旗を持っていなかった。声も上げなかった。


 彼らは前庭の中央で立ち止まり、揃って神殿のほうを向いた。


 先頭の男が、一歩前に出た。


 両手で、一枚の紙を持っていた。


「イグゼル薬師組合、および調合師組合の有志、十七名を代表して申し上げます」


 声は震えていなかった。落ち着いた、事務的な声だった。


 石畳に反響して、回廊の柱の陰まで届いた。


「大神殿付属治療院におかれましては、上級回復薬の廉価な提供を続けておられます。これにより多くの命が救われていることは、我々も承知しております。この点に、異論はございません」


 男は紙を読み上げた。


「そのうえで、お願いを申し上げます」


 しげるは、柱に手をついた。


「当該の薬の提供につき、量の調整をご検討いただきたく存じます」


 それだけだった。


 やめろとは言わなかった。悪だとも言わなかった。誰かを名指しもしなかった。


 量の調整をご検討いただきたい。


 その一文が、十七人の願いの全部だった。


「我々の商いは、この二か月で立ち行かなくなりつつあります。薬師四名、調合師二名が、既に廃業または休業を決めております。我々は、街から薬師がいなくなることを恐れております」


 男は紙から目を上げた。


「薬を作る者が絶えれば、いずれ、街は薬の作り方を失います」


 しげるの背中に、冷たいものが走った。


「以上でございます。ご検討のほど、お願い申し上げます」


 男は紙を畳み、深く頭を下げた。


 後ろの十六人も、揃って頭を下げた。


 誰も何も言わなかった。石畳の上で、十七人が黙って頭を下げていた。


 神殿の扉が開いた。


 出てきたのは、しげるが昨日会った神官だった。サドレク師は前庭に降りて、陳情書を受け取り、そして――同じように深く頭を下げた。


「確かに、お預かりいたします。神殿として、真摯に検討いたします」


 それだけだった。


 双方が頭を下げ合って、それで終わった。


 十七人は列を崩し、来たときと同じように、静かに帰っていった。


 誰も怒鳴らなかった。誰も泣かなかった。


 しげるは、柱の陰から動けなかった。


    ◇


 列の中に、知っている顔は二つあった。


 一つは、以前に薬草茶を飲みに行った店の近所の薬屋の主人だった。名前は知らないが、道ですれ違えば挨拶をする程度には顔を覚えていた。


 もう一つは、調合師組合の若い職人だった。あの日、銅鍋を長い匙でかき混ぜていた男だ。


 しげるは、二人の背中が門を出るまで見ていた。


 ――オゼク翁は、いなかった。


 しげるは列の顔を何度も確かめた。あの小柄な老人はどこにもいなかった。


 カウゼンもいなかった。


 あの太い腕の親方は、十七人の中にいなかった。


「いませんでしたね」


 いつの間にか、ユハンが隣に立っていた。


「オゼクさんも、カウゼン親方も」


「なんで、来ないんでしょう」


「分かりません」


 ユハンは前庭を見ていた。


「ただ、陳情は連名です。名前を出すということです。……名前を出さない理由は、人それぞれあると思います」


 しげるは、それ以上訊けなかった。


    ◇


 午後、しげるは冒険者組合へ行った。


 依頼の精算があった。ただ、それだけの用事だった。


 組合の一階に入ると、掲示板の前に人だかりができていた。


 月報の張り出しの日だった。


「今月もゼロだぞ」


「二月続けてだ」


「記録じゃねえのか、これ」


 若い請負士たちが、声を上げていた。


 その中に、見覚えのある顔があった。銅札の三人組で、先月まで薬草採りの依頼ばかり受けていた連中だった。それが今月は、中級の魔獣討伐を完遂している。


「シゲルさん!」


 一人が気づいて、手を挙げた。


「聞いてくださいよ、俺たち今月、初めて牙猪をやったんです!」


「え、あの、すごいですね」


「シゲルさんの薬があったからです!前なら絶対受けなかった依頼で!」


 三人は口々に喋った。


 持っていくと安心感が違う。腹をやられても街まで帰れると思えるから、踏み込める。踏み込めるから討伐が早く終わる。早く終わるから怪我も減る。


「俺、来年には銅から上がれそうなんです」


 まだ二十歳そこそこの青年が、真っ赤な顔で言った。


「実家に仕送りできるようになって。妹の嫁入りの支度も、たぶん」


 しげるは、笑った。


 笑って「よかったですね」と言った。


 心から、そう思った。


    ◇


「シゲル」


 二階から降りてきたブレトに呼ばれた。


 組合長は月報の紙を手に持っていた。


「二月だ」


「はい」


「二十年やって、こんな月報は書いたことがない」


 ブレトは紙をしげるに見せた。数字の欄に、ゼロが二つ並んでいた。


「わしは、お前に感謝しとる。それは本心だ。何度でも言う」


「……はい」


「今日、神殿で陳情があったそうだな」


 しげるは息を呑んだ。


「見てきました」


「そうか」


 ブレトは、月報を折りたたんだ。


「言っておくが、わしはあの連中を悪く言えん。あっちも本気だ。……ただ、わしはこの二つのゼロを見た。見た以上、続けてくれと言うしかない」


 組合長は、しげるの肩を叩いた。


「感謝しとる人間が多いほど、やめにくくなる。それも覚えとけ」


「…………」


「気の毒な話だがな。わしはお前の味方だ」


 しげるは、頷いた。


 頷きながら、胃の底のほうが重いのを感じていた。


 味方だと言われた。


 感謝されている。四つのゼロがある。あの若い請負士は妹に仕送りができる。


 同じ日の昼に、十七人が石畳に頭を下げていた。


 どちらも本当だった。どちらかが嘘なら楽なのに、どちらも本当だった。


    ◇


 組合を出たのは、日が傾いてからだった。


 しげるは、なぜか南部職人街のほうへ足を向けた。


 用事はなかった。ただ、今日は行かなければいけない気がした。何を言うつもりもないのに、あの店の前を通らなければいけない気がした。


 細い道を抜ける。


 鍛冶の音。夕餉の匂い。子供を呼ぶ声。


 角を曲がった。


 軒先の薬草の束は、まだ吊るされていた。


 しげるは、店の前で足を止めた。


 止めて、それを見た。


 戸口の横の柱に、新しい札が下がっていた。


 『上級薬 取扱休止』の札の、隣。


 同じ手で書かれた、同じような木の札。


 墨が、まだ黒い。


 ――『売家』

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