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第36話「みんなが望んでいる」

 三日、眠れなかった。


 エディナは三日眠れなかったと言った。しげるは、それを聞いた夜から眠れなかった。


 目を閉じると、卓の木目が浮かんだ。何も書かれていない木目の上を、彼女の指が一直線に滑っていく。治療院から、崖まで。


 四日目の朝、しげるは市政庁へ向かった。


    ◇


 応接室は、いつもと同じだった。


 レグナードは今日も先に精算の話を済ませようとしたが、しげるが遮った。


「あの、今日は、相談があって来ました」


「相談」


「はい。……薬の、ことで」


 役人は書類を仕舞って、両手を卓の上で組んだ。


「伺います」


 しげるは、言葉を探した。


 三日かけて頭の中で組み立ててきたはずなのに、いざ口に出そうとすると、順番がぐちゃぐちゃになった。


「その、薬が安くなったせいで、街の薬屋さんが、困ってるみたいで」


「はい」


「調合師の人たちも、注文が来なくて。北のほうで薬草を採ってる人も、今年は採らなかったって言ってて。……その、全部、繋がってるみたいで」


「はい」


 レグナードは、否定しなかった。


 驚きもしなかった。


「ご存じだったんですか」


「市政庁にも帳面はございます」


 役人は静かに言った。


「税の記録です。営業税は商いの規模に応じて納めていただきますので、動きがあれば数字に出ます。薬屋の廃業届は市に出されますし、街道の便の減少は関所の記録に出ます」


「……知ってて」


「把握しております」


「じゃあ、なんで」


 しげるの声が、少し尖った。


 尖ってから、慌てて頭を下げた。


「す、すみません」


「いえ」


 レグナードは表情を変えなかった。


「なぜ止めなかったのか、というご質問でしたら、お答えします。止める理由が、市にはございません」


「え」


「順に申し上げます」


 役人は指を一本立てた。


「一つ。治療院の死者が、去年の同じ時期の半分になりました。これは市が把握している中で、過去二十年で最大の改善です」


 二本目。


「二つ。近隣の村落から街への流入が増え、宿と食堂の売上が伸びております。営業税の増収分は、薬の買い上げ費用を上回っております」


 三本目。


「三つ。請負士の死亡がなくなりました。街道の警備と魔獣駆除の質が上がり、隊商の通行料が増えております」


 レグナードは指を下ろした。


「薬屋の廃業は、四件です。市はその四件を軽く見てはおりません。ですが、市政の帳面の上では――申し上げにくいことですが、四件と、命の数が並んでおります」


 しげるは、何も言えなかった。


 言い返せなかった。


 この人が挙げた三つは、全部本当だ。エディナの帳面と同じくらい本当だ。


「では、市としての希望を申し上げます」


 レグナードは言った。


「継続していただきたい。可能であれば、この量のままで」


「……はい」


「もちろん」


 役人は、そこで一拍置いた。


「最終的には、シゲル殿のお考えです」


 しげるの中で、その一言が、妙な位置に落ちた。


 最終的には、俺の考え。


 優しい言葉に聞こえた。押しつけない言い方に聞こえた。


 だがそれは、こうも聞こえた。


 ――決めるのはあなたです。だから、何が起きても、決めたのはあなたです。


 しげるは、その解釈をすぐに打ち消した。考えすぎだ。この人はいつも丁寧な言い方をする。それだけの話だ。


    ◇


 午後は、大神殿へ行った。


 治療院ではなく、本殿のほうだった。ユハンに取り次いでもらって、上位の神官に会った。


 サドレク師。五十くらいの、痩せた男だった。白い神官服の襟が糊で固くなっている。物腰は柔らかく、目だけが動かなかった。


「あなたが、シゲル殿ですか」


「はい」


「お会いしたいと思っておりました。神殿として、正式に礼を申し上げねばなりません」


 サドレク師は座ったまま、深く頭を下げた。


 しげるは慌てて頭を下げ返した。


 用件を話した。市政庁で話したのと同じことを、順番はやはりぐちゃぐちゃに。


 サドレク師は最後まで黙って聞いていた。


 それから、静かに言った。


「シゲル殿。神殿には、古い言葉があります」


「はい」


「救える命を救わぬのは、殺めるに等しい」


 部屋が、しんとした。


「厳しい言葉です。私も若い頃は、極端だと思っておりました」


 神官は膝の上で手を組んだ。


「ですが、治療院を三十年見ておりますと、これが単なるたとえではないと分かってまいります。薬が足りぬ日に、順番の後ろにいた者が死ぬ。私どもは毎回、誰を後ろに回すかを選んでおりました。……選ぶというのは、そういうことです」


「…………」


「いま、その必要がありません」


 サドレク師は顔を上げた。


「三十年で初めてです。ですから、神殿としては、続けていただきたい。薬師の方々のことは――」


 彼はそこで、少しだけ言葉を選んだ。


「気の毒だと思います。本心からです。ですが、天秤にかけるものではありません」


 部屋の隅で、ユハンが立っていた。


 しげるは、その顔を見た。


 少年は、床を見ていた。


 何も言わなかった。師の後ろで、口を結んで、じっと床を見ていた。


    ◇


 夕方、冒険者組合に寄った。


 ブレトは、しげるの話を聞くと、しばらく黙って腕を組んでいた。


「わしの意見か」


「はい」


「わしは組合長だ。請負士を死なせんのが仕事だ。……この半年で、死んだ請負士は一人もおらん」


 組合長は言った。


「だから、続けてくれと言う立場だ。それ以外は言えん。言ったら、うちの若いのに顔向けができん」


「……はい」


「だが、わしはお前に何度か言ったな。当たり前になるとどうなるか、考えとけと」


「言われました」


「今も同じことを思っとる」


 ブレトは腕を組んだまま、しげるを見た。


「わしの立場としては、続けろだ。わしの勘としては、危ないと思っとる。……両方本当だ。すまんが、それ以上は言えん」


    ◇


 その夜。


 しげるは灰鹿亭の部屋で、寝台に座っていた。


 窓の外は暗い。街の灯りが、いくつか見えた。


 全員に訊いた。


 市政庁は、続けてほしいと言った。神殿は、続けてほしいと言った。組合も、続けてくれと言った。


 誰も、やめろとは言わなかった。


 しげるは、大きく息を吐いた。


 肩から力が抜けていくのが分かった。


 よかった。


 俺の判断じゃない。専門家が、みんなそう言うんだから。市政庁は数字を持っていて、神殿は三十年見ていて、組合長は二十年やっている。その全員が続けろと言う。


 だったら、続けるのが正しいんだ。


 しげるは寝台に横になった。


 三日ぶりに、眠れそうだった。


 目を閉じる直前に、ふと、思った。


 ――誰も「やめろ」とは言わなかった。


 でも。


 誰も「やめなくていい」とも、言っていない気がする。


 市政庁は市の希望を言った。神殿は神殿の務めを言った。組合長は組合長の立場を言った。三人とも、自分の立場から言えることだけを言った。


 あの人たちは、俺の代わりに決めてくれたわけじゃない。


 その考えは、輪郭を持ちかけて、すぐに眠気に溶けた。


 しげるは眠った。


    ◇


 翌朝、灰鹿亭の階下に降りると、ユハンが待っていた。


 朝の早い時間だった。神殿の朝の勤めを抜けてきたのだろう、まだ神官服のままだった。


「シゲルさん」


 顔色が悪かった。


「どうしたんですか、こんな朝早く」


「昨日の夜のことなんですけど」


 ユハンは、言いにくそうに口を開いた。


「神殿に……薬師の方々が、陳情に来られました」

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