第35話「数字は嘘をつかない」
商業組合の小部屋は、灯りが一つきりだった。
卓と椅子が四つ。壁際に書棚。取引の立会いに使う部屋だと、エディナは言った。
彼女は帳面を三冊、卓の上に並べた。
「座ってください」
しげるは座った。
エディナは向かいに座らず、卓の横に立ったままだった。一冊目を開き、しげるのほうへ向ける。
「怒っているわけでも、責めているわけでもありません。それだけ先に言わせてください」
「……はい」
「これは、私の仕事の話です」
彼女は指で頁をなぞった。
「北からの薬草の取引量です。緋鈴草を含む高地の薬草全部。去年の同じ時期を十とすると、今年は三です」
「三」
「次」
二冊目が開かれた。
「北の街道の早馬便。夏までは週三便でした。今は週一です。減った理由を、便の元締めに訊きました。運ぶものがないからです」
三冊目。
「イグゼルの薬屋の廃業届。この二か月で四件。うち二件は、上級薬を主に扱っていた店です」
エディナは顔を上げた。
「それから、届は出ていませんが、休業扱いの店が三軒あります」
しげるは、卓の上の三冊を見ていた。
数字は分かる。読める。だが、それが一つの形になるまでには、まだ距離があった。
「あの、それって、たまたま同じ時期に」
「私も最初はそう思いました」
エディナは一冊目に戻った。
「先月、シゲルさんに言いましたよね。上級薬の小売が四割減ったって。あのとき私、波だと思ったんです。父がよく言っていました。豊作なら麦が下がる。戦があれば鉄が上がる。数字は動くものだ、波を見て慌てるのは素人だ、と」
「……はい」
「だから待ちました。波なら戻るからです」
彼女は頁を進めた。
「今月は、七割減です」
部屋が静かになった。
「波なら、途中で戻ります。三割減って、二割に戻って、また四割になって。上下しながら平らに近づくんです。それが波です」
エディナは、指で頁の上を一直線に引いた。
「これは、下がりっぱなしです」
しげるは、その指の動きを目で追った。
「そして、下がっているのは一つじゃありません」
彼女は三冊を横に並べ直した。
「薬屋の売上。調合師組合の受注。緋鈴草の取引。早馬の便。ぜんぶ別の帳面で、ぜんぶ別の商いです。普通なら、こんなに揃って同じ月に同じ角度で下がりません」
「…………」
「揃って下がるときは、上に一つ、原因があります」
エディナは卓の空いた場所に、指で線を引き始めた。
紙もなく、ただ指だけで。
「治療院に、安い上級薬が入る。ここが上です」
彼女の指が、卓の上を下へ滑った。
「患者が治療院に集まる」
また下へ。
「町の薬屋の上級薬が売れない」
下へ。
「薬屋が仕入れをやめる」
下へ。
「調合師組合の注文が消える」
下へ。
「調合師が緋鈴草を買わない」
下へ。
「採集人が崖に登らない」
最後に、指が卓の端で止まった。
「早馬が走らない」
しげるは、卓の木目を見ていた。
そこには何も書かれていない。何の線も引かれていない。
なのに、はっきりと見えた。
一本の、まっすぐな線が。
治療院から、崖まで。
崖には、テルドがいる。八歳から父と登って、その父が落ちて死んで、それでも登り続けて、今年は登らなかった男がいる。
その手前に、火の落ちた炉が二つある。四十年鍋の前に立って、初めて自分より上手い奴に会ったと言って、胸が鳴ったと笑った男がいる。
その手前に、空いた棚の段がある。五十年待つ仕事をして、四代の顔を覚えて、薬屋なんて要らないのが一番だと笑った翁がいる。
全部、一本の線の上に並んでいた。
しげるは、その線の一番上に、自分がいることを見た。
「……あ」
声が漏れた。
自分の口から出た音とは思えなかった。
「シゲルさん」
エディナは、静かに言った。
「私は、あなたが悪いことをしたとは思っていません」
「…………」
「本当に思っていません。人が助かっているのは事実です。治療院の死者は去年の半分だそうです。それも数字です。私は数字を見る仕事なので、そっちの数字も同じだけ本当だと知っています」
彼女は帳面を閉じた。
「あの薬がなければ死んでいた人が、この街に何十人もいます。その人たちの名前を数えたら、こっちの帳面より長いかもしれません」
しげるは顔を上げた。
エディナは、卓の上の三冊に手を置いていた。
「でも」
彼女は言った。
「起きていることは、起きています」
しげるの喉が鳴った。
「父がもう一つ、言っていました」
エディナは自分の手元を見た。
「数字は嘘をつかないのが取り柄だ。ただし――」
「嘘をつく人間は、数字を使う」
しげるが、続きを言った。
エディナは少し目を見開いた。
「覚えててくださったんですね」
「……はい」
「私、この言葉の意味を、ずっと後半だけで覚えてました。悪い人が数字で人を騙す話だと思ってたんです」
彼女は帳面の背をなぞった。
「でも今日、前半のほうが怖いと思いました」
「前半」
「数字は嘘をつかない、のほうです」
エディナは、しげるを見た。
「誰も嘘をついていないのに、数字はこうなるんです。悪い人が一人もいなくても、こうなるんです。私はそれが分かってしまって、それで、三日眠れませんでした」
灯りの芯が、じじ、と鳴った。
しげるは、乾いた口を開いた。
「……エディナさんは」
「はい」
「エディナさんは、俺が何をしてるか、分かってるんですか」
訊いてしまってから、心臓が跳ねた。
エディナはしばらく黙って、それから首を振った。
「分かりません」
「…………」
「仕入れの記録がない。材料の出所がない。それでも品物は毎月同じ数だけ出てくる。……私の知っている商いの形では、説明がつきません」
彼女は言葉を切った。
「だから、訊きません」
「え」
「訊いても、シゲルさんは秘伝だと言います。前もそうでした。三度目を訊いたら、私は友達じゃなくて、詮索する人になります」
エディナは帳面を抱え上げた。
「私はあなたの友達でいたいので、訊きません。……それが、私のずるいところです」
しげるは、何も言えなかった。
言うなら、今だ。
この人は、訊かないと言っている。訊かないと言っている人に、自分から言うことはできる。この人なら、たぶん、聞いたあとも同じ顔でそこに立っている。
口を開いた。
開いて、息を吸って――そして、その息で別のことを言った。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
言った瞬間に、自分でも分かった。
これは、質問の形をした逃げだった。
どうすればいいかを他人に訊いておけば、自分は答えを出さなくて済む。この三か月、ずっとそうしてきた。値段は市に決めてもらった。量も市に決めてもらった。断り方はサルカに教えてもらった。書類はレグナードが用意してくれた。
だから今度も、この人が何か言ってくれれば――
エディナは、少し悲しそうな顔をした。
ほんの一瞬だった。すぐにいつもの顔に戻った。
「シゲルさん」
「はい」
「私、帳簿係です」
彼女は言った。
「数えるのが仕事です。何が起きているかは言えます。数えれば分かりますから。……でも、何をすべきかは、帳簿には書いてありません」
「そんな、俺、判断とか、その、苦手で」
「知っています」
エディナは、少しだけ笑った。
優しい笑い方だった。優しいから、余計に効いた。
「でも、この街で、あの薬を出すか出さないかを選べる人は、一人しかいません」
彼女は帳面を抱え直して、戸口へ向かった。
戸に手をかけて、振り返る。
「私は、数えます。何度でも数えて、見せます。それは、いくらでもやります」
そして、彼女は言った。
「――それは、私が決めることじゃありません」




