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第34話「採らなかった男」

 街道の下り坂で、しげるは足を止めた。


 風に切れ切れに乗ってきた声が、耳の奥に残っていた。


 ――今年は採らんかった。


 同じ言葉を、東門でも聞いた。あのときは荷を降ろす男で、今度は北へ戻る荷車だ。同じ男かもしれない。


「シゲルさん?」


「あの、俺、ちょっと」


 しげるは言い訳を探して、見つからず、そのまま坂を戻った。


「おーい、どうしたー」


「すぐ戻ります!」


    ◇


 荷車は、街道脇の水場で止まっていた。


 男が馬に水を飲ませている。連れらしい年配の男は、少し離れた岩に腰かけて煙管を吸っていた。


 しげるが近づくと、若いほうが顔を上げた。


 近くで見ると、思っていたより若かった。二十四、五だろうか。日に焼けて、頬がこけている。腕の擦り傷は古いものと新しいものが混じっていた。手の甲に、細かい切り傷が無数にあった。


「なんか用か」


 愛想はないが、突っかかる感じでもなかった。ただ疲れている声だった。


「あの、すみません。さっき、声が聞こえて」


「聞こえた?」


「採らなかった、って。……その、薬草を採る人ですか?」


 男はしげるを上から下まで見た。


 革の胴着に、腰の道具袋。街の請負士の格好だと分かったらしい。警戒が半分だけ緩んだ。


「テルドだ」


「豊島しげるです」


「トヨシマシゲル?」


「しげるでいいです」


「そうか。……で、薬草がどうした」


「いや、なんか、気になって。採らないっていうのは、何かあったのかなって」


 テルドは馬の首を撫でながら、鼻で笑った。


「別に。金にならんから採らんかった。それだけだ」


「何を採る人なんですか」


「緋鈴草」


 しげるの心臓が、一度だけ大きく鳴った。


「……崖に生えてるやつ、ですよね」


「知っとるのか」


「話に聞いたことが」


「なら早いな」


 テルドは水場の縁に腰を下ろした。


「北の高地の、岩壁のてっぺん近くにしか生えん。花が咲くのは夏の十日だけだ。その十日に登って、蜜が飛ぶ前に採って、その日のうちに乾かす。一日でも遅れたら値が半分になる」


「危なくないんですか」


「危ない」


 あっさりした返事だった。


「親父は、それで落ちて死んだ」


 しげるは言葉を失った。


「四十のときだ。俺が十六だった。……まあ、崖に登る仕事だからな。そういうのはある」


 テルドは自分の手を見た。


 その手の甲の切り傷を、しげるも見た。岩と、草の茎で切ったものだろう。


「俺は八つから親父に連れられて登っとった。岩の掴み方は親父から教わった。どの壁のどのあたりに株があるかも、全部頭に入っとる。……あの崖は、たぶん、この世で俺が一番よく知っとる場所だ」


「…………」


「それで、今年は登らんかった」


 テルドは水場に石を落とした。


「去年の秋から値が下がってな。今年の夏は、去年の半値の半値だ。街の調合師が買わんのだ。買っても余るからと」


「余る」


「治療院が安い薬を出しとるから、街の薬屋が上級薬を仕入れん。仕入れんから調合師が作らん。作らんから、うちの草が要らん」


 しげるの喉が、ひくりと動いた。


 繋がった。


 いま、目の前で、一本の線が繋がった。


 治療院。安い薬。薬屋。調合師。この人の崖。


 全部、順番に並んでいる。


「……それって」


「まあ、しょうがない」


 テルドは言った。


 その言い方が、あまりにも普通だった。


「危ない仕事に、半値の半値で登るのは割に合わん。落ちて死んだら、誰が母親を食わせる。俺は親父と違って女房も子もおらんが、母親はおるからな」


「でも、それは」


「街の薬が安くなったのは、いいことだろ」


 テルドはしげるを見た。


「うちの村でも、去年、婆さんが一人死んだ。腹の中で膿んだやつだ。薬が八十だと言われて、村じゃ誰も出せんかった。……今なら十五なんだろ?」


「……はい」


「なら、いいじゃねえか」


 男は笑った。笑うと、急に年相応に見えた。


「俺が採った草が高くて婆さんが死ぬより、俺が採らんで婆さんが助かるほうがいい。……そう思うことにしとる」


 しげるは、何も言えなかった。


 喉の奥が、乾いて張りついていた。


 言うべきことがある気がした。何か。何かを。


 でも、何を言えばいいのか分からなかった。


 俺が作っています、と言うのか。


 言って、どうなる。この人は何と言う。この人は誰を恨めばいいことになる。恨まれる用意が、自分にあるのか。


 ――そもそも、本当に俺のせいなのか。


 その考えが、するりと出てきた。


 薬が安くなったのは、市が値を決めたからだ。治療院が配ることにしたのも、市と神殿が決めたことだ。俺は作って納めているだけだ。作ってくれと言われたから作った。それで人が助かっている。この人の村の婆さんみたいな人が、今は助かっている。


 この人だって、いいことだと言っている。


 だから。


「……大変ですね」


 しげるの口から出たのは、それだった。


 テルドは肩をすくめた。


「大変ってほどでもない。他の仕事を探すさ。木こりでも、荷運びでも、体はある」


「そうですか」


「崖は逃げん」


 男は立ち上がって、馬の手綱を取った。


「値が戻ったら、また登る。戻らんかったら、まあ、そのときはそのときだ」


 岩の上の年配の男が煙管を叩いて、荷車のほうへ歩いてきた。行くぞ、という合図らしい。


 テルドは荷車を引き出しながら、思い出したように振り返った。


「なあ」


「はい」


「あんた、請負士だろ。街の薬、飲んだことあるか」


「……あります」


「よく効くって話だな」


 テルドは前を向いた。


「誰が作っとるか知らんが、腕のいい奴なんだろうな」


 荷車は、坂を上っていった。


 しげるは、その場に立っていた。


 三つの麻袋が、荷台の上で軽そうに揺れていた。


    ◇


 街道を下って、しげるはサルカたちに追いついた。


「なんだったんだ」


「いえ、その、道を訊かれて」


 嘘が、するりと出た。


 自分でも驚くほど滑らかだった。


 サルカは「そうか」と言って、それ以上訊かなかった。


 街に着くまでの道中、しげるはほとんど喋らなかった。ユハンが話しかけてきたが、上の空で返した。


 頭の中で、テルドの言葉が回っていた。


 崖は逃げん。


 俺が採った草が高くて婆さんが死ぬより、俺が採らんで婆さんが助かるほうがいい。


 そう思うことにしとる。


 ――そう思うことにしとる。


 その言い方が、いちばん引っかかった。


 あの人は、そう思っているのではない。そう思うことにしている。


 じゃあ、本当は何を思っているのか。


 考えかけて、しげるは頭を振った。


 考えても分からない。他人の腹の中は分からない。それに、あの人自身が「しょうがない」と言ったのだ。当人が納得しているものを、外から掘り返すのは失礼というものだろう。


 そう自分に言い聞かせて、しげるは歩いた。


 東門をくぐったのは、夕方だった。


    ◇


 組合で解散して、しげるは灰鹿亭へ向かった。


 中央区の通りを歩いていると、商業組合の建物の前に人影があった。


 エディナだった。


 仕事帰りの格好ではなかった。もう日は暮れかけているのに、彼女は建物の外で立っていた。誰かを待っているのは、遠目にも分かった。


 しげるを見つけると、彼女は軽く手を挙げた。


 いつもの挨拶だった。いつもの挨拶なのに、顔が笑っていなかった。


 その腕に、帳面が三冊、抱えられていた。


「シゲルさん」


 エディナは言った。


「……お話が、あります」

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