第33話「湯の里」
その依頼は、掲示板の中で明らかに浮いていた。
『湯の里・秋祭期間の警備。四名。三泊。宿と湯代は依頼主持ち』
「行くぞ」
サルカが即決した。
「え、まだ内容も」
「宿と湯代が依頼主持ちだ。それ以上に読むところがあるか?」
「ない」フェルツが即答した。「珍しく同意する」
◇
湯の里は、イグゼルから山道を半日入った谷にあった。
谷底に十軒ほどの湯宿が並び、あちこちから湯気が上がっている。硫黄の匂いが谷全体に薄く漂っていた。秋祭の時期は湯治客が増え、荷が動き、そのぶん揉め事も増える。だから湯屋組合が毎年、請負士を雇う。
実際の仕事は、拍子抜けするほど暇だった。
昼間は谷の入口に立って人の出入りを見る。夕方は宿場の通りを一回りする。酔っぱらいが二人ほど揉めたが、サルカが間に入って三十秒で終わった。
「これ、本当に依頼なんですか」
「依頼だ」
「働いてないんですけど」
「いるだけで揉め事が減るのが警備の仕事だ」フェルツが言った。「揉め事が起きてから働く警備は、二流だな」
◇
二日目の午後、しげるは湯へ行った。
宿の裏手の道を上ったところに、大きな露天の湯がある。岩を組んで作られた湯船から湯気が立ち、山の斜面が一望できた。
脱衣所で服を脱ぎ、手ぬぐいを持って湯に入る。
「……はぁー」
声が漏れた。
熱い。腹の底まで熱が入ってくる。首まで沈むと、体のあちこちで固まっていたものが、順にほどけていくのが分かった。
しげるは岩に頭を預けて、空を見た。
秋の空が高い。谷の紅葉が始まりかけていて、斜面の上のほうだけが赤い。
人生で、温泉なんて何回来ただろう。
社員旅行が一回。あれは幹事をやらされて、宴会の段取りで湯に入る暇がなかった。あとは、二十代の頃に一人で日帰り温泉に行った記憶がある。あれは、確か、仕事で何か嫌なことがあって――。
三十七年で、二回。
それが今、依頼で、宿代持ちで、山の湯に浸かっている。
「いい湯だな」
しげるは呟いた。
誰も聞いていないのに、少し照れた。
◇
湯気の向こうで、板戸の開く音がした。
しげるは目を閉じたまま、他の客だろうと思った。
思っていた。
「おっ、先客か」
聞き覚えのある声だった。
しげるは目を開けた。
湯気の向こうに、人影が立っていた。手ぬぐいを一本、肩にかけている。それだけだった。
サルカだった。
「うわあああっ!?」
しげるは湯の中で盛大に暴れた。暴れて滑って、鼻から湯を吸って、盛大にむせた。
「な、な、な!?」
「なんだ、うるさいな」
「こ、ここ、男湯!男湯です!」
「二の鐘から四の鐘までは混浴だ」
サルカはあっさり言った。
「入口の板に書いてあったろう。読まなかったのか」
「読んでない!」
「あんた、文字が読めるんじゃなかったのか」
読める。読めるが、読まなかった。
しげるは大慌てで岩のほうを向いた。向いてから、それも失礼な気がして、湯に顔の半分まで沈んだ。
背後で、じゃぶんと湯の入る音がした。
「はぁー……効くな」
サルカは実に気持ちよさそうな声を出した。
「二日、山道を歩いた後の湯は違う」
「あの、あの、俺、出ますんで」
「なんで」
「なんでって!」
「別に取って食わんぞ」
サルカは湯船の縁に背をあずけたらしかった。しげるは断固として岩を見ていたが、湯気と視界の端に、日に焼けた肩と、湯に浮かぶ黒髪と、鎖骨のあたりの古い傷跡だけが入ってきた。
首から下は、幸いにも湯に沈んでいた。
幸いにも、と思った自分に、しげるは軽く絶望した。
「あんた、面白いな」
「面白くないです」
「傭兵の隊にいた頃は、川で男女まとめて水浴びだったぞ。誰も気にせん」
「気にしてください!」
「気にしてどうする。腹が減るだけだ」
理屈になっていない。
サルカはからからと笑って、湯を掬って顔を洗った。
「まあ、あんたが気にするなら、こっちは見んでおいてやる。それでいいだろ」
「……お願いします」
「律儀だな。そういうとこ、嫌いじゃない」
しげるの心臓が、変な跳ね方をした。
跳ねてから、慌てて自分に言い聞かせた。
違う。今のは、そういう意味じゃない。この人は誰にでもこう言う。フェルツにも同じことを言っているのを、俺は先月聞いた。
「はぁー……」
サルカが長く息を吐いた。
湯気の向こうで、その声だけが妙にくつろいでいた。
「あんたと組んで、そろそろ三月か」
「そう、ですね」
「早いもんだ。……悪くない三月だったぞ」
「……はい」
しげるは岩を見たまま、頷いた。
鼻の奥がつんとしたのは、たぶん、湯を吸ったせいだった。
◇
そこへ、板戸がまた開いた。
「シゲルさーん、湯加減はどうです――」
ユハンだった。
入ってきて、二歩進んで、止まった。
湯気の向こうのサルカと、岩を凝視しているしげるを、順に見た。
少年の顔が、みるみる赤くなった。
「し、し、失礼しましたっ!」
「おい、逃げるな。ユハン、お前も入れ」
「む、無理です無理です無理です!」
ユハンは回れ右をして、猛烈な勢いで出ていった。
直後、外で何かにぶつかる音と、「痛っ」という声がした。
サルカが腹を抱えて笑った。
「あいつ、そういうとこは本当に神官だな」
しげるは、笑っていいのか分からず、とりあえず湯に沈んだ。
◇
夕方、ユハンは湯あたりで倒れた。
混浴の件で動転したまま、頭を冷やそうとして別の湯に長く浸かりすぎたらしい。宿の縁側で、濡れ手ぬぐいを額に乗せられて伸びていた。
「治癒神官が湯あたりで倒れるな」
「面目ないです……」
夜、宿の縁側に四人で座った。
地の料理が出た。山菜の和え物、川魚の塩焼き、猪の汁。酒は谷で作っているという濁り酒で、甘くて強かった。
月が出ていた。谷の湯気が、月の光で白く見えた。
「私の生家は、北の農家でな」
酒が回ったころ、サルカがぽつりと言った。
「麦を作ってた。……十二の年に、畑を兵が踏んでいってな」
しげるは、椀を持つ手を止めた。
「戦だったんですか」
「戦にもならん小競り合いだ。どこかの領主とどこかの領主が揉めて、うちの畑がたまたま通り道だった。麦を全部やられて、次の年に父が死んだ」
サルカは濁り酒を舐めた。
「恨んでるわけじゃない。誰を恨めばいいのかも分からんしな。……ただ、二度と、誰かの通り道になる場所に立ちたくないと思った。それで剣を持った」
「…………」
「強くなりたかったんじゃない。自分の足で立ちたかっただけだ」
誰も何も言わなかった。
フェルツが酒を注いだ。
「俺は猟師だった」
弓士は言った。
「足をやってな。二年ほど動けなかった。世話になったのが、宿の娘だ。今の女房だよ」
「へえ!」
「息子が七つ、娘が四つだ。息子は俺に似て可愛げがない」
「言うほど嫌ってないでしょう」ユハンが横から言った。
「言ってない」
「顔が言ってます」
フェルツは黙って酒を飲んだ。ユハンが得意げに笑った。
「僕は、孤児院です」
少年は、事もなげに言った。
「父も母も知りません。神殿の孤児院で育って、そのまま神殿に入りました。……信仰は、正直、後から来たものです。最初は飯を食うためでした」
「今は?」
「今は、あります」
ユハンは月を見た。
「治した人が、次の日に歩いて帰るのを見たので」
しげるは、三人の顔を順に見た。
それから、椀を置いた。
「俺、話せることが何もないんですよね」
「そうなのか」
「三十七年、何にもなかったんです。友達もそんなにいなくて、いい話も悪い話もなくて。……こういうとき、本当に、何も出てこないんです」
言ってから、少し情けなくなった。
サルカが、椀の底で縁側を叩いた。
「じゃあ今から作れ」
「え」
「話せることを、今から作ればいいだろ。まだ生きてるんだから」
あっけらかんと、そう言った。
しげるは、少し笑った。
それから、山の湯気と月と、隣で伸びているユハンと、無言で酒を飲むフェルツと、椀を叩いているサルカを見た。
これが人生か、と思った。
三十七年かかったけれど、たぶん、これがそうだった。
◇
三日目の朝、四人は谷を出た。
街道を下る途中、荷を積んだ一行とすれ違った。
北へ戻る荷車だった。行きに東門で見た、あの荷車に似ていた。荷台には、麻袋がやはり三つ。
その脇を、日に焼けた若い男が歩いていた。
連れの誰かと話しているらしい。風が言葉を切れ切れに運んできた。
「――今年は採らんかった」
――来年は。
「……分からん。崖は逃げんが、値が戻るかは、な」
声は、風の向こうへ流れていった。




