↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

32/55

第32話「調合師の親方」

 結局、何も決めないまま、その日は来た。


 何を言うかを先に決めていけ、とブレトは言った。しげるは灰鹿亭の寝台で三晩考えた。考えたが、決められなかった。


 本当のことを言う。言えない。


 じゃあ何と言う。分からない。


 分からないまま、朝が来て、約束の刻限が来た。


    ◇


 調合師組合の作業場は、中央区の外れにあった。


 石造りの平屋で、屋根から細い煙突が三本立っている。近づくと湯気の匂いがした。薬草の匂いに、蒸気と煮詰まった甘さが混じった、濃い匂いだった。


 戸を叩くと、中から返事があった。


「開いとる」


 中は暑かった。


 広い土間に、腰ほどの高さの炉が四つ並んでいる。そのうち二つに火が入っていて、大きな銅鍋がかかっていた。若い職人が長い匙で鍋をかき混ぜている。壁際には木の棚がびっしりと並び、乾いた薬草の束と壺が詰まっていた。


 奥の炉の前に、大柄な男が立っていた。


 五十半ばくらいか。腕が太い。前掛けが染みだらけで、袖をまくった腕に古い火傷の跡があった。


「シゲル殿かね」


「あ、はい。豊島しげるです」


「カウゼンだ。よく来てくれた」


 男は手を拭いて、しげるの前まで来た。


 握手はしなかった。代わりに、深く頭を下げた。


「まず、断りを入れる。今日は文句を言うために呼んだんじゃない。それだけは信じてくれ」


「は、はい」


「なら結構」


 カウゼンは顔を上げると、親指で炉のほうを指した。


「せっかくだ。見ていくか」


    ◇


 工程を、順に見せられた。


 最初の炉では、乾いた緋鈴草の花を選り分けていた。若い職人が二人がかりで、指先で一つずつ触っては、別のザルに分けていく。


「花蜜の乗りを見とる」カウゼンが言った。「見た目じゃ分からん。触ると分かる。乗りの悪いのを混ぜると、全部が濁る」


「触って分かるんですか」


「三年やれば分かる。五年やると、乾いた音でも分かる」


 次の炉では、選り分けた花を煮出していた。銅鍋の底が焦げないように、若い職人が絶えず匙を動かしている。


「火は弱火だ。強めると、香りが飛ぶ前に効き目が飛ぶ。……このまま一日半、火を落とさん」


「一日半、ずっとですか」


「交代でな。夜中も誰かが起きとる」


 三つ目の工程は、漉して寝かせる。四つ目は、油と合わせて乳化させる。


 その工程の説明のとき、カウゼンは初めて少し声を落とした。


「ここが一番の難所でな。混ぜすぎると分かれる。混ぜ足りんと沈む。混ぜる速さと、温度と、油の入れ方の呼吸だ。……これは教えても伝わらん。手が覚えるまで、何百回もやるしかない」


 しげるは、黙って聞いていた。


 自分は、これを半刻でやる。


 一日半の弱火も、夜中の交代も、三年かけて覚える指先も、何百回の失敗も、全部いらない。頭に浮かべるだけでいい。


 胃のあたりが、じわりと冷えた。


    ◇


 見学が終わると、カウゼンは奥の板張りの部屋に案内した。


 机の上に、一本の瓶が置いてあった。


 赤金色。


 しげるの薬だった。


「治療院から一本、譲ってもらった」


 カウゼンは椅子を勧めながら言った。


「金は払っとる。盗んだんじゃない」


「い、いえ、そんなことは」


 親方は瓶を手に取って、光にかざした。


 しばらく、何も言わなかった。


 それから、机に戻して、まっすぐしげるを見た。


「品はいい」


 太い声だった。


「恐ろしいほどいい。わしが四十年やって、一度も出せなんだ澄み方だ」


「そ、そんな」


「世辞じゃない。職人が世辞で品を褒めたら、その日から職人じゃない」


 カウゼンは指を三本立てた。


「三つ、分かることがある。一つ、蜜の純度が上等すぎる。うちが北から仕入れる一番いい花でも、この澄み方にはならん。二つ、乳化が完全だ。分かれる兆しが一つもない。三つ――」


 親方は指を折った。


「三つ目が分からん。何をどうやったら、この均一が出るのかが、分からん」


 部屋が静かになった。


 炉の火の音が、遠くから聞こえていた。


「シゲル殿」


 カウゼンは、板の机に両手を置いた。


「頼みがある」


「……はい」


「うちと、一緒に作ってくれんか」


 しげるは、顔を上げた。


「一緒に」


「あんたの製法を、そのまま寄越せとは言わん。秘伝は秘伝だ。それを取り上げる権利は誰にもない」


 カウゼンは、身を乗り出した。


 その目が、少し明るくなっていた。職人が仕事の話をするときの目だった。


「やり方はいくらでもある。あんたが要のところだけを作って、うちが仕上げてもいい。うちの若いのを弟子に出してもいい。あんたが手を貸せん日は、うちの品を出す。あんたが作れる日は、あんたの品を出す」


「…………」


「量も、値も、あんたに合わせる。分け前の話は後でいい。まず、作り方を並べて、どこが合うかを見たい」


 カウゼンは一度言葉を切って、それから、少し照れたように付け加えた。


「……正直に言うとな。わしは、あんたの品をもう一度見たいんだ。作っとるところを見たい。四十年やって初めて、自分より上手い奴に会った。それだけで、この歳になって胸が鳴った」


 しげるの喉が、詰まった。


 目の前に、道が置かれていた。


 はっきりと、形のある道だった。


 一緒に作る。この人たちと。緋鈴草を触って分かる指の人たちと、夜中に火を守る人たちと。そうすれば、この作業場の炉は消えない。北から降りてくる荷車も、荷を減らさずに済む。オゼク翁の店の棚も――


 やり方は、いくらでもあると言っている。


 この人は、責めてもいない。奪おうともしていない。ただ、一緒にやろうと言っている。


 言えばいい。


 実は、魔法なんです。材料も要らないんです。手が覚えることも要らないんです。俺の力は神様からもらったもので、だから、俺は何も習ってなくて――


 言え。


「……すみません」


 しげるの口から出たのは、それだった。


「秘伝なので。製法は、お話しできません」


 言った瞬間、自分の中で何かが安全な場所に収まる音がした。


 それは安堵だった。


 安堵している自分に、しげるは気づいていた。


 本当のことを言えば、この人は驚く。驚いたあと、たぶん、俺が今まで「田舎の秘伝」と言い続けてきたことを知る。組合にも、隊にも、エディナにも、市政庁にも、同じ嘘を言ってきたことを知る。


 嘘つきだと、思われる。


 それが怖かった。


 この人たちを助けられるかもしれない道より、嘘つきだと思われることのほうが、怖かった。


 カウゼンは、長いこと黙っていた。


 それから、ゆっくりと椅子の背にもたれた。


「そうか」


「本当に、すみません」


「謝らんでいい」


 親方は首を振った。


「秘伝を守るのは、職人の当たり前だ。わしだって、うちの火の入れ方を他所に教えろと言われたら断る。……無理を言った。こっちが悪い」


 カウゼンは瓶を取って、しげるのほうへ押しやった。


「これは返す。買ったものだが、持っとると若い連中が悔しがってな」


 しげるは、瓶を受け取れなかった。


 受け取れないまま、机の上でそれが赤金色に光っていた。


    ◇


 立ち上がって、戸口まで送られた。


 外に出ると、秋の風が涼しかった。中の熱気に慣れた体には、冷たいくらいだった。


 カウゼンが戸の枠に手をかけて、言った。


「シゲル殿。最後に一つだけ、訊いてもいいか」


「はい」


 親方は、作業場の中を振り返った。


 二つの炉に火が入っている。若い職人が匙を動かしている。あとの二つの炉は、火が落ちたままだった。


 しげるは、そのとき初めてそれに気づいた。


 四つのうち、二つ。


 カウゼンは、そちらを見たまま訊いた。


「――あんたは、いつまで作るおつもりだ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。