第32話「調合師の親方」
結局、何も決めないまま、その日は来た。
何を言うかを先に決めていけ、とブレトは言った。しげるは灰鹿亭の寝台で三晩考えた。考えたが、決められなかった。
本当のことを言う。言えない。
じゃあ何と言う。分からない。
分からないまま、朝が来て、約束の刻限が来た。
◇
調合師組合の作業場は、中央区の外れにあった。
石造りの平屋で、屋根から細い煙突が三本立っている。近づくと湯気の匂いがした。薬草の匂いに、蒸気と煮詰まった甘さが混じった、濃い匂いだった。
戸を叩くと、中から返事があった。
「開いとる」
中は暑かった。
広い土間に、腰ほどの高さの炉が四つ並んでいる。そのうち二つに火が入っていて、大きな銅鍋がかかっていた。若い職人が長い匙で鍋をかき混ぜている。壁際には木の棚がびっしりと並び、乾いた薬草の束と壺が詰まっていた。
奥の炉の前に、大柄な男が立っていた。
五十半ばくらいか。腕が太い。前掛けが染みだらけで、袖をまくった腕に古い火傷の跡があった。
「シゲル殿かね」
「あ、はい。豊島しげるです」
「カウゼンだ。よく来てくれた」
男は手を拭いて、しげるの前まで来た。
握手はしなかった。代わりに、深く頭を下げた。
「まず、断りを入れる。今日は文句を言うために呼んだんじゃない。それだけは信じてくれ」
「は、はい」
「なら結構」
カウゼンは顔を上げると、親指で炉のほうを指した。
「せっかくだ。見ていくか」
◇
工程を、順に見せられた。
最初の炉では、乾いた緋鈴草の花を選り分けていた。若い職人が二人がかりで、指先で一つずつ触っては、別のザルに分けていく。
「花蜜の乗りを見とる」カウゼンが言った。「見た目じゃ分からん。触ると分かる。乗りの悪いのを混ぜると、全部が濁る」
「触って分かるんですか」
「三年やれば分かる。五年やると、乾いた音でも分かる」
次の炉では、選り分けた花を煮出していた。銅鍋の底が焦げないように、若い職人が絶えず匙を動かしている。
「火は弱火だ。強めると、香りが飛ぶ前に効き目が飛ぶ。……このまま一日半、火を落とさん」
「一日半、ずっとですか」
「交代でな。夜中も誰かが起きとる」
三つ目の工程は、漉して寝かせる。四つ目は、油と合わせて乳化させる。
その工程の説明のとき、カウゼンは初めて少し声を落とした。
「ここが一番の難所でな。混ぜすぎると分かれる。混ぜ足りんと沈む。混ぜる速さと、温度と、油の入れ方の呼吸だ。……これは教えても伝わらん。手が覚えるまで、何百回もやるしかない」
しげるは、黙って聞いていた。
自分は、これを半刻でやる。
一日半の弱火も、夜中の交代も、三年かけて覚える指先も、何百回の失敗も、全部いらない。頭に浮かべるだけでいい。
胃のあたりが、じわりと冷えた。
◇
見学が終わると、カウゼンは奥の板張りの部屋に案内した。
机の上に、一本の瓶が置いてあった。
赤金色。
しげるの薬だった。
「治療院から一本、譲ってもらった」
カウゼンは椅子を勧めながら言った。
「金は払っとる。盗んだんじゃない」
「い、いえ、そんなことは」
親方は瓶を手に取って、光にかざした。
しばらく、何も言わなかった。
それから、机に戻して、まっすぐしげるを見た。
「品はいい」
太い声だった。
「恐ろしいほどいい。わしが四十年やって、一度も出せなんだ澄み方だ」
「そ、そんな」
「世辞じゃない。職人が世辞で品を褒めたら、その日から職人じゃない」
カウゼンは指を三本立てた。
「三つ、分かることがある。一つ、蜜の純度が上等すぎる。うちが北から仕入れる一番いい花でも、この澄み方にはならん。二つ、乳化が完全だ。分かれる兆しが一つもない。三つ――」
親方は指を折った。
「三つ目が分からん。何をどうやったら、この均一が出るのかが、分からん」
部屋が静かになった。
炉の火の音が、遠くから聞こえていた。
「シゲル殿」
カウゼンは、板の机に両手を置いた。
「頼みがある」
「……はい」
「うちと、一緒に作ってくれんか」
しげるは、顔を上げた。
「一緒に」
「あんたの製法を、そのまま寄越せとは言わん。秘伝は秘伝だ。それを取り上げる権利は誰にもない」
カウゼンは、身を乗り出した。
その目が、少し明るくなっていた。職人が仕事の話をするときの目だった。
「やり方はいくらでもある。あんたが要のところだけを作って、うちが仕上げてもいい。うちの若いのを弟子に出してもいい。あんたが手を貸せん日は、うちの品を出す。あんたが作れる日は、あんたの品を出す」
「…………」
「量も、値も、あんたに合わせる。分け前の話は後でいい。まず、作り方を並べて、どこが合うかを見たい」
カウゼンは一度言葉を切って、それから、少し照れたように付け加えた。
「……正直に言うとな。わしは、あんたの品をもう一度見たいんだ。作っとるところを見たい。四十年やって初めて、自分より上手い奴に会った。それだけで、この歳になって胸が鳴った」
しげるの喉が、詰まった。
目の前に、道が置かれていた。
はっきりと、形のある道だった。
一緒に作る。この人たちと。緋鈴草を触って分かる指の人たちと、夜中に火を守る人たちと。そうすれば、この作業場の炉は消えない。北から降りてくる荷車も、荷を減らさずに済む。オゼク翁の店の棚も――
やり方は、いくらでもあると言っている。
この人は、責めてもいない。奪おうともしていない。ただ、一緒にやろうと言っている。
言えばいい。
実は、魔法なんです。材料も要らないんです。手が覚えることも要らないんです。俺の力は神様からもらったもので、だから、俺は何も習ってなくて――
言え。
「……すみません」
しげるの口から出たのは、それだった。
「秘伝なので。製法は、お話しできません」
言った瞬間、自分の中で何かが安全な場所に収まる音がした。
それは安堵だった。
安堵している自分に、しげるは気づいていた。
本当のことを言えば、この人は驚く。驚いたあと、たぶん、俺が今まで「田舎の秘伝」と言い続けてきたことを知る。組合にも、隊にも、エディナにも、市政庁にも、同じ嘘を言ってきたことを知る。
嘘つきだと、思われる。
それが怖かった。
この人たちを助けられるかもしれない道より、嘘つきだと思われることのほうが、怖かった。
カウゼンは、長いこと黙っていた。
それから、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
「そうか」
「本当に、すみません」
「謝らんでいい」
親方は首を振った。
「秘伝を守るのは、職人の当たり前だ。わしだって、うちの火の入れ方を他所に教えろと言われたら断る。……無理を言った。こっちが悪い」
カウゼンは瓶を取って、しげるのほうへ押しやった。
「これは返す。買ったものだが、持っとると若い連中が悔しがってな」
しげるは、瓶を受け取れなかった。
受け取れないまま、机の上でそれが赤金色に光っていた。
◇
立ち上がって、戸口まで送られた。
外に出ると、秋の風が涼しかった。中の熱気に慣れた体には、冷たいくらいだった。
カウゼンが戸の枠に手をかけて、言った。
「シゲル殿。最後に一つだけ、訊いてもいいか」
「はい」
親方は、作業場の中を振り返った。
二つの炉に火が入っている。若い職人が匙を動かしている。あとの二つの炉は、火が落ちたままだった。
しげるは、そのとき初めてそれに気づいた。
四つのうち、二つ。
カウゼンは、そちらを見たまま訊いた。
「――あんたは、いつまで作るおつもりだ」




