第30話「休止の札」
しげるは、その札をしばらく見ていた。
『上級薬 取扱休止』
墨がまだ新しい。書いたのは翁だろう。角の丸い、ゆっくりした字だった。
休止。取り扱いを休む。
どういう意味だろう、と思った。仕入れの都合か。それとも体でも悪くしたのか。
「ごめんください」
しげるは戸口をくぐった。
店の中は、この前と同じだった。薄暗くて、涼しくて、乾いた草の匂いがする。三方の棚。素焼きの壺。奥の作業台に、乳鉢と匙と秤。
同じなのに、どこか違って見えた。
しげるはすぐには分からなかった。しばらく立って、それから気づいた。
棚の一段が、空いている。
入り口から見て右手の、目の高さの段。硝子の小瓶が並んでいたはずの場所が、まるごと空だった。拭き掃除だけはしてあるらしく、埃はない。
「おや、シゲルさんかい」
奥から翁が出てきた。
顔色は悪くなかった。むしろ元気そうだった。手には水を張った桶を持っていて、しげるを見て嬉しそうに目を細めた。
「また匂いで寄ったのかね」
「い、いえ。この前のお礼を言いたくて。茶、ごちそうさまでした」
「そんなもんに礼を言いに来る人がおるか」
翁は笑って桶を置いた。
「まあ座りなさい。今日も淹れとるよ」
◇
茶は前と同じ味だった。
苦くて、後から甘い。飲むと喉から胃にかけて温かくなる。
「あの、」
しげるは椀を持ったまま切り出した。
「表の札、あれ、どういう」
「ああ、あれかね」
オゼク翁は、なんでもないという顔をした。
「仕入れを一回、休んどるだけだよ」
「休む」
「上級のやつはな、元がとにかく高い。うちみたいな小さい店だと、仕入れると当分それで金が縛られる。だから、今回は一回休みだ。……それだけの話さ」
「そうなんですか」
「そうそう。まあ、じきにまた入れるよ」
翁は自分の椀に口をつけた。
しげるは、少しだけほっとした。
仕入れの都合。商いをやっていれば、そういうこともあるのだろう。エディナも季節によって仕入れを寝かせるとかなんとか、そんな話をしていた気がする。
だが、翁はそこで一言、余計なことを言った。
余計、というのは、翁にとってはまったく当たり前の話だったからだ。
「それに、いまはうちで買う人がおらんからな」
「え」
「治療院で十五だろう。うちは八十だ」
翁は椀を置いて、笑った。
からりとした笑い方だった。
「そりゃあ、誰も来んわ。わしが客でも治療院に行くよ」
しげるの手の中で、椀の茶がわずかに揺れた。
「あの、それって」
「いや、いいんだよ」
翁は手を振った。
「本当にいいんだ。……あんた、うちの店に薬を買いに来た人が、どんな顔しとるか知っとるかね」
「え……」
「上級薬をくれ、と言いに来る人はな、まず値を訊く。八十だと答えると、たいてい黙るんだ」
翁は、戸口の外の通りを見た。
夕方が近い。荷車が一台、ゆっくり通り過ぎていった。
「そこから先が、いろいろあってな。家に帰って相談してくると言って、戻ってこん人。値切ろうとする人。中級で我慢すると言う人。……借りて来ると言って、本当に借りて来る人もおる」
「…………」
「わしは五十年、それを見てきた」
翁は椀を両手で包んだ。
「薬屋ってのは、待つ仕事だと言ったろう。待っとると、金のある人だけが来るわけじゃない。金のない人も来る。来て、値を訊いて、黙って帰る。……あれを五十年見るのは、なかなか堪えるんだよ」
しげるは、何も言えなかった。
「それが今は、十五で買える」
オゼク翁は言った。
その声には、皮肉も強がりも、ひとかけらもなかった。
「うちで買えんかった人が、買えるようになったんだ。これがいいことじゃなかったら、何がいいことなんだね」
「……はい」
「薬屋なんてのはな、シゲルさん」
翁は、しわくちゃの顔で笑った。
「本当は、要らんのが一番なんだよ。誰も病気にならんで、誰も怪我をせんで、うちの棚の壺が全部売れ残るのが、いちばんいい世の中だ。……五十年やって、それだけは確かに思うよ」
しげるは、椀の底を見ていた。
褒められている。感謝されている。
なのに、胸の奥のどこかが、うまく喜べなかった。
◇
それから、しばらく話をした。
息子の仕事のこと。近所の子が字を覚えたこと。今年の秋は雨が少ないから、山の薬草が固いこと。
しげるは相槌を打ちながら、目の端で店の中を見ていた。
空いた棚の段。
その下の段も、よく見ると隙間があった。壺が二つ抜けている。
小上がりの脇に積んであった木箱が、この前より減っている気がした。
「オゼクさん」
「うん?」
「あの、俺、こういうことを言うのはあれなんですけど」
しげるは椀を置いた。
「もし、その、困ったことがあったら。……言ってください。俺、いま結構、稼いでるので」
言ってしまってから、自分の顔が熱くなった。
言い方が下手すぎる。金を出しますと言っているのと同じだ。失礼にもほどがある。
翁は目を丸くして、それから、大きな声で笑った。
「あんた、いい人だな!」
「す、すみません!変なこと言って!」
「いやいや、嬉しいよ。だがな、うちはまだ困っとらん」
翁は膝を叩いた。
「息子が石工で稼いどるし、嫁は畑も持っとる。わしは店賃も要らん。この建物は先代のものでな」
「そう、なんですか」
「そうさ。だから心配せんでいい。……あんたみたいな若いのが、年寄りの心配なんぞせんでいい」
しげるは、笑ってごまかした。
三十七歳を若いのと呼ぶ人は、この街では翁くらいだった。
◇
店を出たのは、日が落ちかけた頃だった。
軒先の薬草が風に鳴った。翁は戸口まで出てきて、「またおいで」と手を振った。
しげるも手を振り返して、細い道を歩き出した。
職人街の道は狭い。両側の家から夕餉の匂いがして、どこかで子供が呼ばれている。鍛冶の音はもう止んでいた。
角を曲がったところで、しげるは足を止めた。
振り返った。
オゼク薬房の軒先の明かりが、細い道の奥に小さく見えた。
――客が、一人も来なかったな。
最初に来たときも、そうだった。一杯目の茶を飲んで、二杯目を飲んで、四代の話を聞いて、それから採石場の礼まで言われて。その間、誰も店に入ってこなかった。
今日もだ。座っていた間、戸口をくぐった人間は一人もいなかった。
あの店、いつ客が来るんだろう。
考えかけて、しげるは頭を振った。
夕方だからだ。昼間は来るのだろう。それに翁は、うちは困っていないと言っていた。息子が稼いでいて、店賃も要らないと。本人がそう言っているのだ。
薬屋は要らないのが一番だと、あの人は笑っていた。
だから。
「……気のせいだ」
しげるは声に出して言って、また歩き出した。




