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第28話「助かった子」

 治療院の朝は、思っていたより静かだった。


 しげるはユハンに連れられて、寝台の並ぶ広間を歩いた。窓が開け放たれて、秋の入り口の風が通っている。神官が二人、寝台の間を回って水を配っていた。


「あの子です」


 ユハンが、奥から三つ目の寝台を指した。


 小さな子が寝ていた。


 小さい、と思ったのは、寝台が大人用だからだった。掛布の膨らみが真ん中にちょこんとあって、そこから細い腕が一本出ている。髪は汗で額に張りついていて、頬にはまだ熱の名残の赤みがあった。


 寝台の脇に、女がひとり座っていた。


 三十前後だろうか。日に焼けて、痩せていた。着ているものは村の普段着で、裾に泥がついたままだ。膝の上で両手を組んで、子の顔をじっと見ていた。


「奥さん」


 ユハンが小声で呼ぶと、女は弾かれたように顔を上げた。


「あ、ユハン様。おはようございます」


「今朝の熱は」


「下がったままです。さっき、水を飲みました。自分で、起き上がって」


 女の声が震えた。


「自分で、起き上がったんです」


 ユハンが頷いた。それから、しげるのほうを手で示した。


「この方が、あのお薬を治療院に納めてくださっている方です」


 女の目が、しげるを見た。


 しげるは慌てた。


「あ、いえ、俺は納めてるだけで。診てるのはユハンさんたちで、その」


 女が立ち上がった。


 立ち上がって、床に膝をつこうとしたので、しげるは本気で焦った。


「や、やめてください!ほんとに!俺、そういうのは!」


「でも」


「立ってください、お願いします」


 女は膝を落としきる前に止まって、代わりに深く頭を下げた。


 頭を下げたまま、しばらく上げなかった。


 背中が震えていた。


「……この子で、二人目なんです」


 小さな声だった。


「え」


「うちの村で。夏の熱で寝込むのは。……この夏のはじめに、隣の家の子が死にました」


 しげるの喉が、詰まった。


「七つの子でした。街の薬が要るって言われて、村で金を集めて、薬は買えたんです。でも運ぶ人が見つからなくて。往復三日の道を、誰も。……お金が足りなかったんです」


「…………」


「あの子の母親は、いまも畑に出てます。普通に働いて、普通に飯を食って、たまに手が止まるんです」


 女は顔を上げた。


「今年、うちの子が同じ熱を出しました。私、もう、駄目だと思いました。人ってこうやって死ぬんだって、去年見てましたから」


 彼女の目から、涙が落ちた。


「うちの人が、背負って走ったんです。三日の道を、二日で。街に着いたら治療院で、順番も待たずに薬を出してもらえて。銀環十五だって言われて、私、聞き間違いかと思って三回訊きました」


 しげるは、何も言えなかった。


 喉の奥が熱くて、何かを言えば声が壊れそうだった。


「魔術師様」


 女は、しげるの手を両手で取った。


 畑仕事の手だった。硬くて、乾いていて、あちこち割れていた。


「ありがとうございます」


    ◇


 寝台の子が、目を覚ました。


「かあちゃん」


 掠れた声だった。


 女が飛びついて、子の額に手を当てた。


「熱、ないね。ないよ」


 子は母親の顔を見て、それからしげるを見た。


 六歳の目が、しばらくしげるを観察していた。


「だれ?」


「薬をくださった方だよ。あんたを治してくれた」


「くすり」


 子は考えた。考えて、思い出したように顔をしかめた。


「にがかった」


 しげるは、噴き出してしまった。


 噴き出した拍子に、目の縁から何かがこぼれた。


「ごめんね。苦かったか」


「うん。すごく」


「今度、甘いのを作るよ」


 言ってしまってから、それは無理かもしれないと思った。味を変えたら効き目が変わるかもしれない。あとでユハンさんに訊こう。


 子は少し考えて、それから小さく言った。


「ありがとう」


 母親が教えたわけではなかった。自分で言った。


 しげるは、うまく返事ができなかった。


「……うん。よかった」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


    ◇


 廊下に出た。


 ユハンが壁にもたれて、両手で顔を覆っていた。


「ユハンさん?」


 少年は答えなかった。


 肩が震えていた。


 しげるは黙って、隣に立った。


 窓の外で鳥が鳴いていた。廊下の向こうで、誰かが桶を運ぶ音がした。


 しばらくして、ユハンが手を下ろした。目も鼻も真っ赤だった。


「すみません。みっともないところを」


「いえ」


「僕、神官になったとき」


 ユハンは、鼻をすすった。


「人を助けるんだと思ってたんです。孤児院で拾われて、神殿に入って、治癒術を教わって。人を助ける仕事だって、そう思ってました」


「……はい」


「でも、神官になって最初に覚えたのは、助けられない理由のほうでした」


 少年は廊下の床を見ていた。


「薬がない。薬はあるけど高い。順番が来ない。村が遠い。運ぶ人がいない。魔力が尽きた。今日はもう三人診た。……全部、本当の理由なんです。誰かがサボってるわけじゃない。全部、仕方がないんです」


「…………」


「仕方がないって言葉を、僕は二年で何百回も使いました。使うたびに、少しずつ、慣れていくんです。慣れていく自分が、いちばん怖かった」


 ユハンは顔を上げた。


 真っ赤な目で、笑った。


「今日、初めて、全部果たせた気がします。神官になった理由を」


 しげるは頷いた。


 頷くことしかできなかった。


 ユハンは深く息を吸って、吐いた。それから、少し落ち着いた声で言った。


「シゲルさん。一つだけ、聞いてください」


「はい」


「僕たち治癒神官は、人を治せます。傷を塞いで、血を止めて、痛みを取れます。……でも、命そのものは作れません」


 少年の声は静かだった。


「どんな術でも、どんな薬でも、一度切れた命を戻すことはできないんです。神殿の一番古い教えです。命は与えられるもので、作れるものじゃない、と」


「……はい」


「だから、助かった命が全部なんです」


 ユハンはまっすぐしげるを見た。


「一人助かったら、それで全部です。あの子が生きてるってことは、僕たちが取り戻せる限界まで、全部取り戻したってことなんです」


 しげるは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 命だけは、作れない。


 どこかで聞いたような気がした。


 どこで聞いたのかは、思い出せなかった。


    ◇


 治療院を出たのは、昼前だった。


 空が高い。秋の光が石畳を白く照らしていた。


 しげるは、久しぶりに、理由もなく足取りが軽かった。


 夜に薬を作る。半刻で五十本。それだけのことで、あの子が生きて、あの母親が泣いて、ユハンが二年ぶんの何かを取り戻す。


 こんなにいいことが、他にあるだろうか。


 三十七年、何者にもなれなかった。


 でも今、あの寝台の子は、自分が作ったもので生きている。


 しげるは、思わず笑った。人通りの真ん中で笑ったので、通りすがりの女が不思議そうな顔をした。


 その女の向かう先に、人の列があった。


 しげるは足を止めた。


 治療院の門前から、通りに沿って列が伸びていた。


 昨日はなかった。少なくとも、こんなに長くはなかった。


 並んでいるのは街の人だけではなかった。荷を背負った者。子を抱いた者。杖をついた老人。着ているものが違う。街道を歩いてきた者たちだった。


 列の後ろのほうで、誰かが誰かに説明していた。


「ここで安い上級薬が出るんだと。銀環十五だ」


「十五?八十じゃなくてか」


「十五だ。だから隣村からも来とる」


 しげるは、その列を眺めた。


 それから、また歩き出した。


 みんな、助かるんだな、と思った。

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