第26話「オゼクの薬屋」
南部職人街は、中央区より道が細い。
石畳は擦り減って波打ち、両側から家が迫り出している。鍛冶の音、木を挽く音、なめし革の匂い。人の暮らしが道まではみ出している街だった。
その日、しげるは倉庫の壁の補修を終えて、荷を借りた大八車を返しに歩いていた。
夕方の少し前。傾いた日が細い道の片側だけを照らしていた。
匂いに気づいたのは、角を曲がったところだった。
乾いた草の匂い。少し苦くて、少し甘い。土と根の匂いが混じっている。
治療院の棚の前と、同じ匂いだった。
しげるは足を止めて、匂いのもとを見た。
小さな店だった。間口は大人が両手を広げたほどしかない。軒先に薬草の束が何十も吊るされていて、風にゆっくり揺れている。開いた戸の奥は暗く、木の棚がぎっしり並んでいるのが見えた。
看板は文字が薄れかけていた。《通響》のおかげで、辛うじて読めた。
――オゼク薬房。
しげるは、なんとなく覗き込んだ。
「おや、いらっしゃい」
奥から声がした。
出てきたのは小柄な老人だった。背は曲がっていないが細い。白いものの混じった髪を短く刈り、目尻に深い皺がある。何より、手が目についた。指先が薬草の汁で茶色く染まっていて、爪の際まで色が入っている。
「どこか悪いのかね」
「あ、いえ!客じゃなくて……すみません、匂いが、その、いい匂いだったので、つい」
しげるは慌てて手を振った。
老人は目を丸くして、それから笑った。
「匂いで足を止めた人は久しぶりだ。……せっかくだ、茶でも飲んでいきなさい。ちょうど淹れたところでな」
「え、いや、そんな」
「客じゃないなら、なおのこと構わん。売る気がないんだから」
妙な理屈だった。妙な理屈のまま、しげるは店の中に招き入れられていた。
◇
店の中は薄暗くて、涼しかった。
三方の壁が全部棚だった。素焼きの壺。硝子の小瓶。紙に包まれた乾いた葉。引き出しの一つ一つに文字が書いてある。奥に小さな作業台があって、乳鉢と匙と秤が並んでいた。使い込まれて、どれも角が丸い。
老人は木の椀に茶を注いで、丸椅子を勧めた。
「オゼクだ。この店をやっとる」
「豊島しげるです。ええと、しげるが名前で」
「シゲルさんな。妙な響きだ。東のほうかね」
「あ、はい。かなり東の、田舎のほうから」
「そうかい」
オゼク翁はそれ以上訊かなかった。
茶は薬草茶だった。ほのかに苦くて、後から甘い。飲むと喉から胃にかけて、じんわり温かくなった。
「うまいです、これ」
「そりゃよかった。売り物じゃないがね」
「え、売らないんですか」
「これは店番の茶だよ。……薬屋ってのは、待つ仕事なんだ」
翁は自分の椀を両手で持って、戸口のほうを見た。
通りを人が通り過ぎていく。誰も入ってこない。
「調合ってのがまず待つ仕事でな。煎じて、寝かせて、また煎じる。急いだら駄目になる。それから、客を待つ。腹が痛いだの、腰が立たんだの、そういう人が来るのを、こうやって座って待つ」
「はあ……」
「五十年やっとるよ。この場所で」
「五十年!?」
しげるは思わず声を上げた。
五十年。自分が生きた年数より長い。
「若い頃は、そりゃあ退屈だと思ったもんだ」
翁は笑った。
「毎日毎日、同じ場所で座って、来るか来んか分からん客を待つ。友達は船に乗ったり、傭兵になったりしとった。わしだけが同じ椅子に座っとる。……だがな、十年もやると分かってくる」
「何がですか」
「待っとると、人が来るんだ」
翁は椀を置いた。
「腰の悪い婆さんが来る。次の年は、その婆さんの嫁が来る。何年かして、嫁が孫を連れて来る。その孫が大きくなって、自分の子の熱で駆け込んでくる。……四代だよ。同じ家の四代を、この椅子から見た」
しげるは黙って聞いていた。
四代。想像がつかなかった。自分が知っている人間関係は、せいぜい数年で入れ替わるものだった。
「動かんでよかった、と思っとるよ。動かんかったから、四代分の顔を覚えられた」
◇
その後、話はあちこちに飛んだ。
息子は石工で、道具の扱いは器用なのに薬草の名前は一つも覚えられないこと。嫁が煮物を作りすぎること。
そして、孫娘のこと。
「六つでな。毎日そこの石段に座って、道行く人を数えとる」
「数える?」
「三十まで数えられるようになったんだと。それで三十を過ぎると、また一から数え直す。飽きんらしい」
翁は嬉しそうに戸口の外を指した。
店の前に、二段だけの低い石段があった。すり減って、真ん中がへこんでいる。
「今日はどこかへ行っとるな。いつもは足をぶらぶらさせて座っとるんだが」
しげるは石段を見た。
なんでもない石段だった。この街に、いくらでもある。
◇
二杯目の茶をもらった。
しげるは、職人街の依頼の話をした。倉庫の壁。井戸。それから、少し前の採石場のこと。
翁が手を打った。
「ああ、あんたか。噂の魔術師様は」
「い、いや、様とかは」
「石で崖を止めたと聞いたよ。うちの近所の若いのが二人、あの現場に出とってな。生きて帰ってきた」
オゼク翁は、深く頭を下げた。
「ありがとうよ。あの子らの母親を、わしは子供の頃から知っとる」
「や、やめてください!俺、指示されたとおりに石を出しただけで!」
「その石で助かったんだ。それでいいじゃないか」
翁は顔を上げて、笑った。
しわくちゃの、屈託のない笑顔だった。
しげるは茶を飲み干した。三杯目を断って、丸椅子から立ち上がった。
「あの、ありがとうございました。茶、すごくうまかったです」
「またおいで。今度は客として来てくれてもいいぞ。腹でも壊したらな」
「壊さないように気をつけます」
「そりゃそうだ」
翁は戸口までついてきた。
しげるが大八車の柄を持ち上げたとき、老人が思い出したように言った。
「そうそう。ひとつ訊いてもいいかね」
「はい?」
「近ごろ、治療院が安い上級薬を出しとるらしいな」
しげるの手が、柄を握ったまま止まった。
「うちにも客が言うんだ。銀環十五で買えたと。前は八十だったろう。……いや、それはいいんだ。安いのはいいことだ。買えん人が買えるようになったんだから」
翁は本当に嬉しそうだった。嬉しそうな顔のまま、首をかしげた。
「ただ、どうにも合点がいかんでな」
「合点」
「あの品を、どこの誰があの値で作れるのかと思ってな。緋鈴草の相場からして、どう転んでも十五じゃ出せんのだ。わしも五十年これで食っとるから、それくらいは分かる」
軒先の薬草が、風に鳴った。
オゼク翁は、しげるの顔を見ていなかった。夕暮れの通りのほうを見て、ひとりごとのように言った。
「――ありゃあ、どこの薬なんだろうなあ」




