第24話「五十本」
「五十本、でどうでしょう」
レグナードはそう言った。
月に五十本。治療院の年間予算から逆算した数だという。しげるは頷いた。頷いてから、多いのか少ないのかも分かっていないことに気づいた。
◇
その夜、灰鹿亭の自室。
しげるは床に空瓶を並べた。自分で創った、栓付きの小瓶を五十本。壁際から窓際まで、二列に並べると部屋の床が埋まった。
「よし」
手をかざす。
治療院の棚の記憶。赤金色の透明感。二層の混ざり方。乳化の均一さ。一度覚えてしまえば、あとは同じ形を繰り返すだけだった。
一本目。二本目。五本目。十本目。
瓶が次々に満たされていく。手のひらの奥がほんのり温かいだけで、疲労はまったくない。息も切れない。指も震えない。
二十本を超えたあたりで、しげるは自分が鼻歌を歌っていることに気づいた。
三十本。四十本。
五十本目の栓を閉めたとき、窓の外はまだ暗かった。
しげるは部屋の真ん中に座り込んで、床一面の赤金色を眺めた。
半刻。かかった時間は、それだけだった。
銀環十枚が五十本で、五百枚。大銀環に直して五十枚。金環にして五枚。日雇いの人が十年働いて届くかどうかの額を、一晩、いや半刻で作った。
しかもこれは、治療院の棚では四千枚分だ。
「……こわ」
思わず声が出た。
嬉しさよりも先に、そっちが来た。何かの目盛りが壊れている感じがする。自分の手のひらの奥に、目盛りの壊れた蛇口がついている感じ。
しげるは頭を振った。
考えても仕方がない。明日はこれを届けるのだ。届けば、誰かが助かる。それ以外に考えることはない。
◇
翌朝、荷車を借りて治療院へ運んだ。
木箱二つ。緩衝の布を敷いて、五十本を詰めてある。裏口に着けると、ユハンが飛び出してきた。
「シゲルさん!届いたって、本当に――」
箱の蓋を開けた瞬間、ユハンの言葉が止まった。
朝の光の中で、赤金色が五十本、静かに並んでいた。
「…………」
「あの、ユハンさん?」
「……ロズ師。ロズ師を、呼んできます」
ユハンは走っていって、年配の神官を引っ張ってきた。
ロズ師は箱を覗き込み、一本を取り上げ、光に透かした。それから栓を抜いて、匂いを嗅いだ。指先に一滴だけ落として、舌に乗せた。
長い沈黙のあと、老神官はしげるを見た。
「……全部、同じ品質か」
「はい。全部同じです」
「五十本」
「五十本です」
ロズ師は瓶を箱に戻し、両手で顔を拭った。
「わしはこの治療院に三十年おる。上級薬が一度に五本入った日を、祝いの日と呼んどった。……五十とはな」
その声が少し掠れていた。
しげるはどう返していいか分からず、「あの、来月も持ってきます」とだけ言った。
老神官は何度も頷いた。
◇
治療院の空気は、その日から変わった。
これまでの上級薬は鍵付きの格子の中にあった。数が限られているから、誰に使うかを毎回、神官たちが会議で決めていたのだという。ユハンが教えてくれた。
「使う相手を決めるって、要するに、使わない相手を決めるってことなんです」
その会議が、なくなった。
棚の格子は開け放たれ、瓶は普通の薬と同じ段に並べられた。順番待ちの札の束が薄くなり、寝台の回転が速くなった。運び込まれて三日で歩いて帰る者が出た。
三日目の夕方、ユハンが息を切らして灰鹿亭に来た。
顔が上気していた。
「シゲルさん。今日、三人助かりました」
「三人」
「腹を刺された荷運びの人と、産後の血が止まらなかった奥さんと、あと、屋根から落ちた大工さんです。……三人とも、先月なら、たぶん」
ユハンはそこで言葉を切った。切ったまま、笑った。泣きそうな笑い方だった。
「たぶん、二人は駄目でした」
「…………」
「ロズ師が、僕に薬を持ってこいって言うんです。会議もせずに。行けって、それだけで。……僕、あんな指示、初めて受けました」
しげるは、夕食の匙を置いた。
自分の胸のあたりが熱くなっているのが分かった。目の奥も熱かった。
半刻だ。半刻で三人だ。
三十七年間、誰かの役に立った実感なんて、ほとんど持てなかった。仕事はしていた。数字は合わせていた。でもその数字が誰の何になっているのかは、一度も見えなかった。
今は、見える。
「よかった」
しげるはそれだけ言った。それ以上の言葉が出なかった。
メリゼが気を利かせて、二人分の煮込みを運んできた。ユハンは今夜は神殿に戻らなくていいと言って、久しぶりに腹いっぱい食べた。
◇
その後の数日で、街の空気も少し変わった。
治療院で安い上級薬が出る、という話が広まった。門前の掲示に薬価が張り出され、銀環十五枚と書かれていた。市が十枚で買い、治療院が五枚を乗せて出す。それでも市場の八十より、はるかに安い。
しげるは組合の依頼をこなしながら、街のあちこちでその話を聞いた。
肉屋の親父が、義理の母親の腰の薬が買えたと言った。門衛が、同僚の息子の高熱が下がったと言った。西門の外の季節労働者まで、治療院に行けば診てもらえると噂していた。
「魔術師様」と呼ばれる回数が、また増えた。
◇
五日目の夕方、しげるは商業組合へ寄った。
エディナは仕事終わりで、帳面を鞄に詰めているところだった。
「エディナさん。ちょっと報告があって」
「めずらしいですね。何かありました?」
「治療院に、薬を納めることになりました。市政庁と話がついて、月に五十本」
エディナの手が止まった。
「五十本」
「はい。もう一回目は納めました。安く出せてるみたいで、ユハンさんが三人助かったって」
「……そうですか。それは」
エディナは微笑んだ。心からの笑みだった。
「よかったですね。本当に」
「はい!」
「治療院の薬価も下がったんですよね。門前の張り紙、見ました。……あれで助かる家は、たくさんあります」
彼女は鞄から帳面を出して、卓の上で開いた。
仕事の癖なのだろう。しげるの話を、そのまま記録に落とし始めた。日付。品目。数量。納入先。
書きながら、彼女の手がふと止まった。
止まったまま、動かなかった。
「エディナさん?」
「あ、いえ」
エディナは顔を上げた。笑顔は、まだ半分残っていた。半分だけ。
「一つだけ、伺ってもいいですか」
「はい」
「その薬、材料はどこから仕入れているんですか」




