第22話「呼び出し状」
その夜、しげるは寝台に座って、道具袋の中身を全部並べてみた。
理由は自分でもよく分からなかった。ユハンの報告を聞いてから、落ち着かなかったのかもしれない。手を動かしていたかった。
寝具の上に、一つずつ。
銀札。剣と山の紋。登録番号。首輪のつもりだと言われて渡された、この街での身分証。
商業組合の預かり証。金環三百二十枚の残り。数字の桁が大きすぎて、いまだに実感が湧かない。
メモの束。仕事の指示。断る、と書いた紙。先に言う、と書いた紙。字は汚い。
薬の瓶が二本。赤金色。あと一本は、三日前にマルドの女房へ渡した。
そして、一番底に、畳んだ半袖のワイシャツ。
しげるはそれを広げてみた。皺だらけの、量販店の吊るしのシャツ。襟の内側が少し黄ばんでいる。八月の夜、残業から帰ってそのまま着ていたものだ。
二か月前。
このシャツを着た男は、深夜のアパートで冷凍のチャーハンを食べていた。三度確認した請求書のことを考えながら、テレビの中の異世界を見て、いいよなあ、と呟いていた。会社と部屋を往復するだけの毎日で、それが四十になっても五十になっても続くのだろうと、なんとなく思っていた。
二か月で、こうなった。
組んで戦う仲間がいる。名前を呼んでくれる宿の夫婦がいる。数字の話をしてくれる友達がいる。街を歩けば「魔術師様」と声がかかる。十三人が生きて家に帰った日に、その真ん中に自分がいた。
しげるは自分の手を見た。
小さくて、柔らかい、事務仕事の手だ。この二か月で、少しだけ日に焼けた。
この手で石を出した。壁を出した。薬を出した。
「……人生、始まったんだな」
声に出してみると、照れくさかった。
照れくさかったが、嘘ではなかった。三十七年待って、始まった。それは間違いなく本当のことだった。
しげるはシャツを畳み直して、袋の底へ戻した。
◇
翌日の夕食は、隊の四人が揃った。
灰鹿亭の奥の卓で、煮込みを囲んで、しげるは昨夜の話を切り出した。噂が神殿まで届いていること。上の神官がユハンに確かめてきたこと。
「タダで配ってる、ですか」
フェルツが眉を寄せた。
「配ってはないです!三本だけです! 隊の常備と、あと……その、マルドさんの奥さんに一本」
「一本、渡したのか」
「隣の家の子が熱で寝込んでて。六つの子で、治療院は五日待ちで」
「それで、代金は」
「取ってないです」
フェルツは椅子の背にもたれた。
しばらく天井を見て、それから言った。
「シゲル。薬は金になる」
「はい」
「金になるものには、必ず主がいる。塩には塩商、鉄には鉄商、麦には麦商。薬にも主がいるぞ。薬師って主がな」
「主……」
「その連中がどう思うかって話をしてる。あんたに悪意があるかどうかは関係ない。市場に八十の値が付いてるものを、誰かがタダで配ってるらしい――そう聞いたとき、薬で飯を食ってる人間が何を思うか」
しげるは黙った。
市場の薬草屋の軒先で、エディナが冗談として言った言葉が、頭をよぎった。北のほうの薬草農家は、今年で店じまいですね。
「でもさ」
サルカが肉を頬張りながら言った。
「悪いことしてないだろ」
「サルカ」
「してないだろ。人が死にかけてて、助けられる薬を持ってて、出した。それで銭を取らなかった。どこに悪い部分がある?」
「悪いとは言ってない。まずいと言ってる」
「同じことだ、あんたの言い方だと」
「違う」
フェルツは短く言った。
「悪いことをした人間は責められる。まずいことをした人間は、巻き込まれる。責められるより厄介だぞ」
卓が静かになった。
しげるは、助けを求めるようにユハンを見た。
この中で薬の制度に一番詳しいのは彼だ。神殿で薬学を学んで、治療院の棚の裏側を全部知っている。
ユハンは、匙を持ったまま俯いていた。
「……ユハンさん?」
「僕は」
少年は言葉を選んだ。選んで、選びきれずに、止まった。
「僕は……神殿から預けられてる身なので。制度の話は、僕が言うと、神殿の考えみたいになってしまうので」
「そんな、気にしなくても」
「気にします」
ユハンは顔を上げなかった。
「言えることと、言えないことがあるんです。……すみません」
言えないことがある、と言った時点で、そこに何かがあることは全員に伝わった。だが誰もそれ以上突かなかった。
沈黙を破ったのは、サルカだった。
「ま、悪いことはしてないんだ。堂々としてろ」
彼女はジョッキを置いて、しげるの肩を叩いた。
「隠すからおかしな噂になる。訊かれたら答える。困った奴には出す。金を取れと言われたら、そんとき考えりゃいい」
「そうですよね!」
「フェルツも、心配性はそのへんにしとけ。あんたの腕を治した薬だぞ」
「……それを言われると弱いな」
フェルツは苦笑して、話を畳んだ。
結局、それで終わった。
しげるは何も決めなかった。薬を配るのをやめるとも、これから誰に出すとも、値段を取るとも取らないとも、決めなかった。四人とも、それぞれ正しいことを言っていた。フェルツの警戒も、サルカの割り切りも、ユハンの沈黙も、全部正しかった。正しい意見が三つあると、人は決めなくてよくなる。
その夜の卓は、最後は笑って解散した。
サルカが明日の依頼の話を始めて、フェルツが日程を計算して、ユハンが顔を上げて笑った。ドッドが締めの一皿を出してくれた。
いい夜だった。
誰も、何も決めなかった夜だった。
◇
翌朝。
組合に顔を出すと、受付のネシェルが立ち上がった。
「シゲルさん。お預かりしているものがあります」
差し出されたのは、封書だった。
厚みのある上等な紙。裏返すと、朱色の蝋で印が押してある。天秤と城壁を組み合わせた紋。イグゼル市政庁の印だった。
周りの請負士たちが、ちらちらとこちらを見た。市政庁の封書が組合の窓口に届くこと自体が、あまりないらしい。
しげるは封を切った。
中の文面は、丁寧だった。丁寧すぎるほどだった。書き出しは日頃の街への貢献への謝意で、次に採石場の一件への言及があり、そして最後に、一行。
――薬の件につき、お話を伺いたく。
しげるは、その一行を三度読んだ。
文字は読める。意味も分かる。分かるのに、腹の底が冷たくなった。何を訊かれるのか。何を答えればいいのか。訊かれた以上を答えるな、とブレトは言った。あれは、どういう意味だったのか。
顔を上げると、ネシェルがこちらを見ていた。
彼女は事務的に、しかし少しだけ声を落として、告げた。
「本日、九の鐘に市政庁へ。――レグナード・ヴェイゼ様が、お待ちです」




