第19話「英雄の日当」
その夜の灰鹿亭は、貸し切りみたいな騒ぎになった。
マルドの快気祝い、という名目だった。言い出したのはガリドで、費用は人夫たちの持ち寄りで、場所はしげるの定宿だからという理由で灰鹿亭になった。メリゼは張り切って鍋を二つ回し、無口なドッドは新作の皿を二品も出した。羊の香草焼きと、豆と腸詰の煮込み。どちらも取り合いになった。
「魔術師様!まず一杯!」
「旦那、うちの班からも一杯!」
「あの、俺そんなに強くな……いえ、いただきます!」
しげるの前には、注がれた麦酒が三杯並んでいた。断り方が分からないうちに四杯目が来た。
卓の向こうでは、包帯の取れたマルドが女房に飲みすぎを叱られ、その隣でガリドが崩落救助の一部始終を三度目に語り、そのたびに石の籠が大きくなっていた。
「――で、旦那の石の籠がこう、ずどんと!崖ごと受け止めたわけよ!」
「盛るな」通りがかったサルカが訂正した。「受けたのは芯の周りだけだ。表層は普通に崩れた」
「細けえなあ、剣士の姐さんは!」
「細かくない。現場の報告は正確にやれ。次の救助で人が死ぬ」
言い方は身も蓋もないのに、人夫たちは「違いねえ!」と笑って受けた。サルカの正確さは、現場の人間には礼儀として通じるらしかった。
ユハンは隅の卓で、治療院から様子を見に来たロズ師と薬談義をしていた。フェルツは早々に一杯だけ空けて、土産の包みを提げて帰った。「妻子持ちは祝いの席より家の夕飯だ」というのが言い分で、誰も引き止めなかった。
しげるは、麦酒の四杯目をちびちびやりながら、その全部を眺めていた。
いい騒ぎだった。
自分を中心にした騒ぎなのに、自分が真ん中にいなくていい。それが心地よかった。
「おい、英雄殿」
サルカがジョッキ片手に隣へ来て、どかりと座った。
「え、英雄はやめてください」
「街がそう呼び始めてるんだ、諦めろ。……で、どうだ。いい気分だろ」
「……はい。正直、かなり」
「素直でよろしい」
サルカはジョッキを傾けた。
「覚えとけ。今日のこれは、あんたが自分の手で稼いだぶんだ」
「手っていうか、能力ですけどね。俺のは」
「能力だけなら、朝一番に現場へ走らん」
サルカは騒ぐ人夫たちのほうへ顎をしゃくった。
「半鐘で跳ね起きて、招集より先に駆けつけて、丸一日、人の指図で立ちっぱなしで、最後に自分の持ち物を差し出した。能力ってのはそのどれのことだ?……ま、深く考えるな。今日の酒の分くらいは、あんたの働きだって話だ」
しげるは、手の中のジョッキを見た。
異世界に来て、嬉しかったものを順に思い出す。最初は金環三百二十枚だった。人生が変わると思った。次が初報酬の銀環十五枚だった。三百二十枚より、なぜか十五枚のほうが嬉しかった。
そして今夜は。
報酬の額を、まだ聞いてもいない。聞いてもいないのに、これまでで一番だった。
序列が、完全にひっくり返っている。金額と嬉しさが、綺麗に逆順に並んでいる。三十七年間、金がないから人生が始まらないと思っていた男の中で、何かの相場が音を立てて組み変わっていた。
「シゲルさん、お疲れさまです」
気づくと、卓の脇にエディナが立っていた。仕事帰りらしく、帳面の入った鞄を提げたままだ。
「あ、エディナさん!来てくれたんですか!」
「ガリドさんのところの快気祝いだと聞いて。採石場の石材はうちの組合も扱ってますから、お祝いだけでもと」
彼女は席には着かず、立ったまま果実水を一杯だけもらった。それから、少し声を落とした。
「大変だったそうですね。十三人、全員だったって」
「皆さんのおかげです。俺は言われたものを出してただけで」
「その言い方、街中に広まってますよ。手柄をぜんぶ配って回る魔術師様がいるって」
「か、勘弁してください……」
エディナはくすりと笑った。それから、ふと、笑いを引っ込めた。
「……一つだけ、訊いてもいいですか。仕事の癖みたいな質問なんですけど」
「はい?」
「最後の方に使った薬。あれ、いくらで出したんですか」
「え?タダですけど」
しげるは、きょとんとして答えた。
「だって目の前で死にかけてたんですよ。金取るとか、ないでしょう」
「……そうですか」
エディナは、それだけ言った。
何かを言いかけるように、唇がわずかに動いた。帳簿を三年つけてきた目が、一瞬だけ、数字を見るときの目になった。銀環八十枚の品が、タダで、公衆の面前で――
でも今夜は、祝いの席だった。卓の向こうでマルドが笑っていて、女房が笑っていて、それは誰がどう見ても、正しくて、いいことだった。
エディナは言いかけた何かを果実水と一緒に飲み込んで、いつもの顔に戻った。
「いえ。野暮な質問でした。今夜はおめでたい席ですから」
「?……はい!」
しげるは何も気づかず、五杯目の麦酒を受け取った。
宴は夜半まで続いた。締めにガリドが音頭を取り、人夫たちの野太い唱和が灰鹿亭を揺らして、騒ぎはようやくお開きになった。
◇
翌朝は、当然のように二日酔いだった。
しげるが頭を抱えて階下に降りると、メリゼが水差しと一緒に伝言を寄越した。
「組合から使いが来てたよ。起きたらすぐ来てほしいって」
「うう……依頼の整理かな……」
「それがね」
メリゼは、ちょっと声をひそめた。
「市政庁のお方が、あんたを訪ねて、組合に来ておられるんだってさ」




