第18話「あの薬を」
「上級薬を!誰か、上級薬を持ってないか!」
ユハンの叫びが、夕暮れの採石場に散った。
答える声はなかった。
ここは街外れだ。人夫たちの持ち物はツルハシと水袋で、薬なんて上等なものは誰も持っていない。ガリドが怒鳴った。
「中央区の薬屋まで走れ!早い奴!」
「駄目です、往復で半刻かかります!」ユハンが首を振った。むしろの上のマルドの呼吸は、もう浅く、速く、濡れた音を立てていた。「この傷で半刻は……保って、四半刻……!」
「そんな……嘘だろ、マルド!」
若い人夫がむしろに取りついた。人垣の後ろで女の悲鳴がした。マルドの女房が人垣を掻き分けて転がり出て、むしろの脇に崩れ落ちた。
「あんた!あんた、目を開けて!」
夕日が現場を赤く染めていた。
朝から十三人を掘り出して、十二人を光の下に立たせて、最後の最後、あと一人のところで、間に合わない。あの依頼書と同じだ。薬はある。この世界のどこかに、確かにある。ただ、ここにないだけで人が死ぬ。
ユハンが、顔を上げた。
その目が、まっすぐ、しげるを見た。
何も言わなかった。言えるはずがなかった。田舎の秘伝。詮索はなしの約束。それでも治癒神官の目は、はっきりと訴えていた。
しげるの手は、もう道具袋の口にかかっていた。
迷いは、三秒だった。
出せば、バレる。この人垣の全員に、薬を持っていたことが知れる。田舎の秘伝が、噂になって歩き出す。何かが変わってしまう。何がどう変わるのか分からない。分からないことが、いつだって一番怖い――
三秒で、その全部を蹴った。
目の前で人が死ぬのと較べたら、全部、後回しでいい。
「ユハンさん!」
しげるは袋の底から赤金色の瓶を掴み出し、むしろの脇へ滑り込んだ。
「これ!俺の持ち合わせです!」
「……っ、はい!」
ユハンが栓を歯で抜いた。マルドの頭を女房に支えさせ、口の端から少しずつ、赤金色を流し込む。
「飲んで……お願い、飲んで……」
女房の声だけが、現場に響いていた。
誰も動かなかった。ガリドも、人夫たちも、サルカもフェルツも、夕日の中で像みたいに固まって、むしろの上の一点を見ていた。
マルドの喉が、上下した。
一口。二口。
濡れた呼吸の音が――変わった。
ごぼごぼと湿っていた音から、濁りが引いていく。浅かった胸の上下が、ゆっくり、深くなっていく。土気色だった顔に、夕日とは別の色が差した。
マルドが、咳をした。血の混じらない、ただの咳だった。
それから、薄く目を開けた。
「……あ?……なんで、泣いてんだ、お前」
「あんたぁ!」
女房が声を上げて突っ伏した。
一拍の静寂のあと――採石場が、爆発した。
うおお、という声にならない声。ツルハシが放り上げられ、誰かが誰かと抱き合い、若い人夫が泣きながら笑っていた。ガリドが太い腕でしげるの首を抱え込み、髭面を押しつけて何か叫んでいる。揉みくちゃにされて、しげるはむしろから引き剥がされ、気づけば人夫たちの輪の真ん中にいた。
「旦那!あんた、朝からいったい何人助けりゃ気が済むんだ!」
「担げ担げ!胴上げだ!」
「え!?あ、や、やめ、俺重いですから!腰!皆さんの腰が!」
本気で焦るしげるを、日焼けした腕たちが構わず宙に放り上げた。一度。二度。三度。夕焼けの空が近づいて、遠ざかった。
降ろされたしげるに、マルドの女房が駆け寄って、両手でしげるの手を包んだ。
「ありがとうございます……ありがとうございます、魔術師様……」
「魔術師様、って、いや、あの」
しげるは真っ赤になって、本気で言った。
「俺は言われたものを出してただけで。掘ったのは皆さんで、指図はガリドさんで、傷を診てたのはユハンさんで、上で岩を見張ってたのはサルカさんで、走り回ってたのはフェルツさんで……ほんとに、皆さんが助けたんです」
それを聞いた人夫たちが、一瞬黙って、それからいっそう大きく沸いた。
「聞いたか!この期に及んで手柄を配って回る旦那があるか!」
「魔術師様!今夜は職人街で呑んでけ!」
サルカが人垣の外で、フェルツと顔を見合わせて笑っていた。ほらな、とでも言うような顔だった。
その、誰もがむしろと胴上げの輪を見ていた夕暮れの中で。
人垣のいちばん外れに、一人だけ、輪を見ていない男がいた。
埃っぽい現場に不似合いな、糊の利いた紺の制服。胸に市政庁の紋章。書記らしいその男は、騒ぎから少し離れて立ったまま、手帳に何かを書きつけていた。
薬の瓶が空になった時刻。魔術師の名。石の柱と籠のこと。
書き終えると、男は手帳を懐に仕舞い、誰にも声をかけずに、暮れていく街のほうへ歩き去った。
しげるは、気づかなかった。
◇
数日後の朝。
しげるが組合に顔を出すと、受付のネシェルが、めずらしく待ち構えていた。
「シゲルさん。掲示板、見ました?」
「え?まだですけど」
「ご自分で見たほうが早いです」
掲示板の前には、人だかりができていた。しげるが近づくと、なぜか人垣がすっと割れた。
板の一角に、真新しい依頼書が並んで貼られていた。
護衛依頼。指名、シゲル殿。井戸掘りの相談。指名、魔術師シゲル様。壁の普請。指名――
「シゲルさん宛の指名が」
ネシェルが帳面を繰りながら言った。
「今朝だけで、六件です」




