第16話「半鐘」
しげるが着替えて表へ飛び出すと、夜明け前の通りはすでに人の流れができていた。
桶を持つ者。ツルハシを担ぐ者。上着を羽織りながら走る者。流れはみな南へ向かっている。半鐘は鳴り続けていた。
「魔術師どの!」
人混みの向こうからサルカの声がした。フェルツとユハンもいる。組合の招集より早く、全員が自分の足で出てきていた。
「組合に緊急の張り出しが出た。災害救助、等級不問、報酬は市持ちだ。行くぞ」
「はい!」
◇
南部職人街を抜けた先、街外れの崖地に採石場はあった。
現場が見えた瞬間、しげるは足が止まりそうになった。
崖の一角が、丸ごと崩れていた。
石を切り出すために段状に削られた崖面の中ほどが大きく抉れ、崩れた岩と土砂が斜面の下の作業場を呑み込んでいる。砕けた木組み。潰れた滑車。土砂の裾から突き出した手押し車の車輪が、まだゆっくり回っていた。
現場の縁には既に人垣ができていた。駆けつけた人夫たち。泣き叫ぶ女。子供を抱いて立ち尽くす老人。そのただ中で、日焼けした大柄な男が怒鳴っていた。
「駄目だ、そこは掘るな!上が来るぞ!」
男は人夫頭らしかった。ツルハシを持って土砂に取りつこうとする若い人夫の襟首を、力ずくで引き戻している。
「ガリドさん、でも下にまだ!」
「分かってる!」
人夫頭は血を吐くような声で言った。
「分かってるが、見ろ、崩れ面がまだ生きてる!掘って揺らせば二度目が来る!二度目が来たら、下の連中ごと、掘ってるお前も埋まるんだ!」
しげるは崖面を見上げた。
素人目にも分かった。崩れた面の上に、ひび割れた岩の張り出しが、今にも剥がれそうな角度で残っている。あの下を掘る。確かに、正気の作業ではなかった。
「じゃあどうすんだよ!」若い人夫が叫んだ。「支えを組むにも材木がねえ!取りに戻ったら半日だ!下で生きてる奴は、それまで保つのか!?」
「……っ」
人夫頭は答えられなかった。
掘れば崩れる。支えは半日先。誰も動けない。夜明けの光の中で、現場全体が、その膠着に縛りつけられていた。
「――どけ、どけ!」
人垣が割れた。
ブレト・カウザーだった。組合の腕章を巻いた職員数人を連れ、大股で現場へ入ってくる。人夫頭が駆け寄った。
「組合長!埋まってるのは十三人だ!朝一番の切り出し班が丸ごと!」
「生存の見込みは」
「分からん。だが奥の詰め所は岩が組んで空洞になってるはずだ。そこに逃げ込めてりゃ……くそ、掘れさえすりゃあ!」
ブレトは崩れ面を見上げ、張り出した岩を見て、口を固く結んだ。
その目が、人垣を探すように巡り――しげるを見つけた。
「おい。来い」
呼ばれて、しげるは人垣を抜けた。何百という視線が集まるのが分かった。
ブレトは前置きをしなかった。
「お前の壁は、どれだけの重さを受けられる」
「え?」
「灰狼を潰し、蜥蜴三十を閉じ込め、馬車四台を囲った。全部報告で読んだ。訊いてるのはその先だ。――崩れてくる崖を、受け止められるか」
現場が静まった。
人夫頭が、若い人夫が、人垣の女たちが、しげるを見ていた。
しげるは崖面を見上げた。
あの張り出しが、どれだけの重さなのか。自分の壁がどこまで保つのか。数字では分からない。分からないことを引き受けるのは、昔から一番怖い。できませんと言えば安全だ。できますと言って、できなかったら――壁が割れたら、下の十三人ごと、掘っている人たちごと。
いつもなら、ここで言葉を濁す。多分、とか。やれるだけ、とか。保証を相手に預ける言い方を、しげるは十五年かけて身につけてきた。
でも。
石の下に、十三人いる。
あの依頼書の子供は、間に合わなかった。間に合わなかった話を聞くのは、もう嫌だった。
「……やってみます」
言ってから、違う、と思った。
やってみます、じゃない。
「いえ――やります」
自分の声が、自分で少し他人みたいに聞こえた。
「受け止めます。だから、掘り方を教えてください。俺、掘り物は素人なので。どこに壁が要るか、どんな形の支えが要るか、指示してもらえたら――そのとおりに、いくらでも創ります」
ブレトの目が、わずかに見開かれた。
それから組合長は、人夫頭を振り返った。
「聞いたな、ガリド。指図はお前だ。こいつは道具だと思え。石でも鉄でも、要る形を要るだけ出す道具だ。使い潰す気で使え」
「……本当か?本当に、支えが出るのか」
「出ます!」
しげるは崩れ面の際まで進み出た。人夫頭が慌ただしく指をさす。
「な、なら、まずあの張り出しの真下だ!天井を受ける柱と梁!石でいい、太く!」
しげるは両手を向けた。
会社のビルの柱。駅の高架を支えるコンクリートの脚。毎日その下を歩いてきた、あの太さ。あの間隔。あれが崩れる心配を、日本で一度でもしたことがあったか。なかった。あのくらい、絶対のやつを――
地面が唸った。
土砂の斜面を割って、灰色の石柱が二本、三本と立ち上がった。柱の頭から梁が伸び、張り出した岩の真下で組み合わさって、崩れかけた天井を下から支えた。
軋み。土の零れる音。
そして――止まった。
張り出しは、石の梁の上で動かなくなった。
現場が、どよめいた。
「……嘘だろ」若い人夫が呟いた。「一瞬で、支保が」
「見てないで手を動かせ!」ガリドが吼えた。「支えがあるうちに掘るぞ!怪我人の運び手はそっち!おいあんた、次はこっちだ、崩れ面に沿って壁を!」
「はい!」
現場が、一斉に動き出した。
しげるは指示されるまま、二枚目の壁を土砂の際に立てた。人夫たちがツルハシを振るい始める。石と土を掻き出す音が、朝の光の中に重なっていく。
そのときだった。
「静かに!」
土砂に耳を当てていた老人夫が、手を挙げた。
全員が動きを止めた。
風の音。遠い半鐘の残り。そして――
こつ。こつ。こつ。
土砂の奥から、微かに、何かを叩く音がした。
「――生きてるぞ!」




