第15話「帳簿と薬草茶」
「……で、あの薬、あと何本ある」
焚き火の前でフェルツにそう訊かれて、しげるは一瞬詰まった。
正直な在庫はゼロだ。あの一本きりだった。でも材料があれば自作できる、と言ってしまった手前――
「い、今はもうないです。でも、その、材料が手に入れば……何本かは」
「そうか。なら頼みがある」
フェルツは焚き火に薪を足しながら言った。
「隊の常備に二、三本、都合してくれ。もちろん材料代は隊の経費で払う。遠出の依頼じゃ、薬の一本が生き死にを分ける。今日ので身に染みた」
「賛成です」ユハンが身を乗り出した。「あの品質の薬が隊にあるなら、受けられる依頼の幅が変わります」
「相場はどうする」サルカが訊いた。「上級薬は銀環八十だぞ。三本で二百四十。隊の金庫が軽くなるな」
「材料代だけでいいです!」
しげるは慌てて言った。三人がしげるを見た。
「その、秘伝なので、材料は安いんです。手間も、かからないっていうか。だから経費とかは全然」
「……タダより高いものはない、って故郷じゃ言うがな」
フェルツが一拍おいて言った。
「まあいい。なら道具代として一本につき銀環一枚。それ以下は隊の規律に障る。文句は?」
「ないです!」
こうして、しげるの薬は隊の備品になった。
帰りの道中、しげるは荷台の隅でこっそり考えていた。嘘は一つ増えた。でも誰も損していない。フェルツの腕は治って、隊は薬を持てて、皆が喜んでいる。何も悪いことは起きていない。
むしろ、いいことしか起きていない。
◇
イグゼルに戻った翌日は、隊の休養日だった。
しげるは昼前に商業組合の前でエディナと待ち合わせた。護衛依頼の無事の報告と、世話になった礼に昼食を、と誘ったら「では割り勘で、買い物に付き合ってください」と実務的な条件がついた。
「フェルツさん、大変でしたね。腕はもう?」
「完全に治りました。いい薬があったので」
「上級薬ですか。護衛の経費で落ちるといいですけど……ああいうのは依頼主と折半の契約にしておくべきなんですよ。うちの標準契約書だと第十一項に」
「エディナさん。休みの日です」
「あ。すみません。癖で」
市場は昼の賑わいだった。
エディナの買い物は速かった。塩、油、乾麦、蝋燭。店ごとに値を見て、迷わず、まとめて値切らず、帳面に書きつけていく。彼女の買い物は生活というより小さな仕入れだった。
その足が、一軒の店の前で止まった。
薬草屋だった。軒先に乾いた草の束が吊るされ、店の奥の棚に薬瓶が並んでいる。灰鹿亭の並びにもある、街のどこにでもある薬屋の一つだ。
「緋鈴草の値、また上がってますね」
エディナは軒先の札を見て呟いた。それから、例の早口が始まった。
「上級回復薬って銀環八十じゃないですか。あの八十の内訳、私ぜんぶ言えますよ。緋鈴草の仕入れがいま高くて、それでも薬草代は全部足しても二十いかないんです。残りの六十は何かというと、人なんです。北の高地の採集人の危険手当、早馬の便の運び賃、選別と乾燥の手間賃、調合師の三日分の技術料、薬屋の店賃と口銭。八十枚の中身は、ほとんど人の手間なんです」
「へ、へえ……」
しげるは相槌を打ちながら、内心で冷や汗をかいていた。その内訳の話は、聞くのが二度目だった。一度目はユハンから。そして自分は、その八十枚の品を、手間ゼロで創れてしまう。
だから、つい、訊いてしまった。
「じゃあ……もし、手間のかからない薬があったら、どうなるんですか」
「手間のかからない薬?」
「たとえばの話です。誰かがその、すごく安く、いい薬をたくさん作れたら。八十枚の薬が、十枚とかで買えるようになったら。……そしたら、あの依頼書の子みたいな子も、助かるようになるのかなって」
エディナは足を止めて、少し考えた。
「そうですね。助かる子は、確実に増えると思います」
「ですよね!」
「それで」
彼女は薬草屋の軒先を見上げて、こともなげに続けた。
「北のほうの薬草農家は、今年で店じまいですね」
「……え」
「だって誰も高い薬草を買わなくなりますから。採集人も廃業、早馬の便も減って、調合師は四人もいらなくなる。この店も畳むでしょうね。──なんて」
エディナはくすっと笑った。
「たとえばの話に本気で答えてしまいました。数字の癖です。そんな夢みたいな薬、あるわけないのに」
冗談だった。彼女にとっては、ただの職業病の余談だった。
しげるは笑おうとして、頬が少し遅れた。
「あはは……ですよね。ないですよね、そんな薬」
道具袋の底の、空になった瓶の場所が、急に重くなった気がした。
でも、と胸の中で打ち消す。俺は売ってない。隊に何本か置くだけだ。市場の値段なんて、何も変わらない。フェルツの腕は治った。それは絶対に、いいことだった。
考えは、市場の喧騒と、エディナの「次は油の店です」の一言で流れていった。
◇
夕方、灰鹿亭に戻ると、メリゼが「おかえり」と当たり前に言った。
おかえり、と言われる場所がある。それだけで、まだ少し胸の奥がくすぐったい。
夕食は羊肉と豆の煮込みだった。隅の卓で食べていると、無口な主人のドッドがのそりとやってきて、しげるの前に麦酒のジョッキを一つ置いた。
「え?あの、頼んでな――」
ドッドは親指で自分を指した。おごり、ということらしい。それだけ言うと(何も言っていないが)厨房へ戻っていった。
「常連認定だよ」
メリゼが皿を下げながら笑った。
「うちの人がジョッキを出すのは、長くいてほしい客だけなんだ。よかったねえ」
しげるは湯気の向こうでジョッキを掲げて、厨房に頭を下げた。奥で親指が立った。
異世界に来て、もうすぐひと月になる。
仲間がいて、定宿があって、おかえりと言われて、無口な主人が黙って酒をおごってくれる。三十七年の日本で積み上げられなかったものが、このひと月で、気づけば手の中にある。
麦酒はぬるくて、今夜も妙にうまかった。
◇
その数日後の、まだ暗い明け方だった。
カン、カン、カン、と乾いた金属音が街に響いた。
しげるは寝台から跳ね起きた。半鐘だ。連打が夜明け前の街を叩き起こしていく。廊下で戸の開く音と、メリゼの声がした。
「南の採石場が崩れたって!人が埋まってるって!」




