第14話「その薬、どこで」
「数、五!」フェルツが叫んだ。「尾根から降りてくる!狙いは馬だ!」
商隊が騒然となった。御者が手綱を締め、馬がいななく。四台の馬車が街道の上で棒立ちになった。
「馬車を寄せろ!固まれ!」サルカが剣を抜いて駆け出しながら怒鳴る。「ユハンは荷台の陰!魔術師どの、あんたは――」
「先に言います!」
しげるは叫んだ。書き留めた紙のとおりに。
「壁で馬車を囲みます!人と馬ごと!サルカさんとフェルツさんが外です!いいですか!?」
サルカが一瞬だけ振り向いて、獰猛に笑った。
「上等!囲え!」
しげるは両手を地面に叩きつけるように向けた。
岩場のときと同じ環。ただし今度は馬車四台と人がまるごと入る大きさ。地響きとともに灰色の壁が円を描いて生え上がり、商隊と荷と馬を石の輪の中に収めた。
壁の外に残ったのは、サルカとフェルツと、しげる。
「あんたも中にいろって言ったんだがな!」
「い、言われてないです!」
「言う前に囲われた!」
灰狼たちが草を割って迫ってきた。五つの灰色の影。岩場の蜥蜴とは速さが違う。第4話で見た、あの馬ほどの巨体が、五頭。
フェルツの矢が風を切った。先頭の一頭の眼窩に突き立ち、巨体が前のめりに転がる。二の矢が続けて隣の一頭の喉へ。減速したそいつへサルカが滑り込み、すれ違いざまに首筋を断った。
二頭が落ちた。速い。この人たちは本当に強いんだ、としげるは場違いに感心した。
残る三頭が散開した。一頭がしげるへ真っ直ぐ来る。
考える前に足元から石壁を跳ね上げた。第4話と同じ反射。灰狼は今度は激突しなかった。壁を蹴って跳び、弧を描いて着地し、距離を取る。賢い。同じ手は二度通じない。
「引くぞ、こいつら!」サルカが叫んだ。「頭数を損した群れは深追いしない!」
その言葉どおり、三頭は円を描くように下がり始めた。
終わる。そう思った瞬間だった。
撤退の弧の外側にいた一頭が、突然向きを変えた。逃げ際の一撃。狙いは矢を射続けて最も憎いフェルツ。
「フェルツ!」
フェルツは跳びのいた。ほぼかわした。
ほぼ、だった。
太い爪の一本が、弓を持つ左腕を掠めた。掠めた、に見えた。だが灰狼の爪の掠めるは、人の刃物の一撃に等しかった。
三頭の影が尾根の向こうへ消えたとき、フェルツは左腕を押さえて膝をついていた。指の間から血が滴っていた。
◇
「ユハンさん!」
壁の一部を開いて、しげるは叫んだ。ユハンが荷台の陰から転がり出てくる。
フェルツの左の前腕は、深く裂けていた。しげるは直視できずに目を逸らし、逸らした自分を恥じてまた見た。ユハンが両手をかざす。淡い光が脈打ち、見る間に出血が弱まっていく。
「……血は止めました。でも」
ユハンの顔は晴れなかった。
「深いです。腱まで届いてます。僕の術じゃ表面までしか塞げません。このまま固まると、左手の指が」
「はっきり言え」フェルツが低く言った。冷や汗で顔が白い。
「弓が、引けなくなるかもしれません。街に戻って上級薬を使えば戻ります。でも傷は時間との勝負で、戻るまで丸一日……早いほうが、確実なんです」
上級薬。
銀環八十枚の、あの赤金色。
しげるの心臓が跳ねた。
道具袋の底に、ある。
出せば、フェルツの腕は助かる。出せば、聞かれる。それはどこで手に入れた、と。答えられるのか。深夜の宿で創りました、と?水やパンと同じように、無から?
迷いは、たぶん二秒か三秒だった。
膝をついたフェルツの、血の気の引いた横顔。妻子がいる。死ねない依頼は受けない、と初対面で言った男。弓が引けない弓士に、依頼は来ない。
気づいたら、道具袋に手を突っ込んでいた。
「これ!」
赤金色の小瓶を、ユハンの手に押しつけた。
「上級回復薬です!使ってください!」
ユハンは目を見開き、瓶と、しげるの顔を見比べた。だが問うより先に神官の手が動いた。栓を抜き、フェルツの口元へ。
「フェルツさん、飲んで。ゆっくり」
フェルツが薬を呷った。
変化は、見ている全員に分かった。
裂けた傷の奥で、肉が盛り上がっていく。塞がりきらなかった深部が内側から埋まり、皮膚が引き寄せられるように閉じていく。フェルツの荒かった息が、一つ、二つと深くなった。
やがてフェルツは左手を持ち上げ、指を一本ずつ折り曲げた。五本とも動いた。
「……動く」
商隊の中から、安堵のどよめきが漏れた。
「すごい……こんなに早い……」
ユハンが空になった瓶を光に透かして、呆然と呟いた。
「浸透が速すぎます。むらが全然ない。僕、治療院で何十本も上級薬を見てますけど、こんな上物は――」
ユハンの目が、しげるに向いた。
サルカも見ていた。フェルツも、左手を握ったまま見ていた。商隊の御者たちも見ていた。
「シゲルさん。この薬、どこで」
来た。
しげるの頭の中を、いくつもの答えが駆け抜けた。本当のことを言うか。創りました。魔力から。水やパンと同じに。神様にもらった力で――駄目だ。話が大きすぎる。神様のくだりから全部話すことになる。信じてもらえるのか。頭のおかしい男だと思われたら。やっと出来た居場所が、変な空気になったら。
「……田舎の、秘伝なんです」
口が、先にそう言っていた。
「故郷に伝わってる調合で。材料さえあれば、自作できるんです。街を出る前に、その、持ってきてた分で」
嘘だった。
材料などない。調合もしていない。昨日の深夜に杯の上で創った。それだけだ。
言いながら、しげるは自分の声が妙に滑らかなことに驚いていた。十五年の会社員生活で、角の立たない言い回しだけは鍛えられていた。
「秘伝……そうですか。故郷の……」
ユハンは瓶を見つめた。何か言いたげに口を開き――閉じた。この隊には、詮索しない空気がある。人間、話したくない過去くらいある。組合長のあの一言が、いつの間にか隊の作法になっていた。
「詮索はなしだ」
サルカが剣を鞘に戻しながら言った。
「何であれ、フェルツの腕はあんたの薬が救った。今はそれで十分だろ」
「あ、はい!そうしてもらえると!」
助かった、と思った。
思ってから、何に助かったんだろうな、と胸の隅がざらついた。
フェルツだけが、まだこちらを見ていた。治ったばかりの左手と、しげるの顔を、一拍長く見比べていた。皮肉屋の弓士が何も言わないのは、褒めているときか、考えているときだ。どちらなのかは分からなかった。
◇
その夜の野営は、討伐明けのような妙な高揚に包まれた。
商隊の親方が礼だと言って酒を振る舞い、御者たちが灰狼の戦いを身振り付きで再現し、サルカが「話を盛るな」と訂正して回った。
焚き火が落ち着いた頃、フェルツがしげるの隣に来て座った。
初対面のとき、一番遠くに座った男だった。それが今、肩の触れそうな距離にいる。
「腕の礼を言ってなかった」
「い、いえ!無事でよかったです!」
「妻子持ちの弓士が左手を失くしたら、一家で路頭に迷う。あんたはうちの家族を助けた。命の借りは返す主義だ」
フェルツは焚き火を見たまま、淡々と言った。それから一拍おいて、続けた。
「……で、あの薬、あと何本ある」




