第13話「一本目」
部屋の灯りを最小まで絞って、しげるは床に座り込んだ。
目の前に置いたのは、夕食のときにもらった空の木杯と、水差しと、雑巾。何かをこぼしたときの備えだ。準備をしてから、我に返って少し笑った。深夜にこそこそと、実験の支度。中学生の頃、親に隠れて夜中にラジオを組み立てたときと同じ手つきだった。
「よし……」
両手を杯の上にかざす。
昼間の光る文字を思い出す。緋鈴草の花蜜を核とした治癒促進剤。傷と臓腑の修復を早める糖質様の複合体。苦味質。滋養分。水と薬草油の二層を乳化して――
手のひらの奥が、温かくなった。
杯の中に、液体が満ちた。
「で、できた!」
慌てて声を潜める。壁の向こうは他の客室だ。
しげるは杯を灯りにかざした。
……色が、違う。
治療院で見た上級回復薬は澄んだ赤金色だった。杯の中の液体は赤いことは赤いが、どんよりと濁って、底に細かい澱のようなものが沈んでいる。
《真理視》を使った。
【回復薬(粗悪)】治癒促進の成分を含むが濃度にむらがあり、乳化が不完全/効果:中級品に劣る/品質:不可――
「うーわ」
不可、ときた。
しげるは濁った液体を見つめた。原因は何となく分かる気がした。成分の名前は覚えていた。でも「乳化して安定」のところを、言葉として覚えていただけだった。混ざり方の感覚。二層がどう溶け合っているか。あの赤金色の透明感が、どういう均一さから来ているのか。そこの理解が粗かった。
水やパンとは訳が違う。あれは三十七年間、毎日見て、触って、飲み食いしてきたものだ。知っているの深さが違った。
「……もう一回」
昼間の記憶を、ゆっくりと反芻する。
格子の中の瓶。光を通した赤金色。揺らしたわけでもないのに、液体の中に一切のむらがなかった、あの佇まい。《真理視》の文字を、一行ずつ思い出す。読むのではなく、意味を確かめながら。二層が細かく細かく混ざり合って、もう分かれられなくなっている状態。牛乳みたいなものか。ああ、そうか。ドレッシングと牛乳の違いだ。
二本目。
濁りは減った。澱もない。だが赤金色にはまだ遠い。品質:可。
もどかしさより、面白さが先に来ていた。仕事で新しい受発注システムを覚えたときの感覚に似ている。分からない場所が分かれば、あとは一つずつ潰すだけ。
深く息を吸って、吐いた。
治療院の棚の前に、もう一度立っているつもりで。
三本目。
杯の中で、それは澄んでいた。
灯りを透かすと、赤金色が揺れた。治療院で見たあの色だった。いや――むらのなさで言えば、あれよりも。
【上級回復薬】緋鈴草の花蜜を核とした治癒促進剤/主成分:傷と臓腑の修復を早める糖質様の複合体、熱源を抑える苦味質、体力を支える滋養分/水と薬草油の二層を乳化して安定/品質:極めて良――
極めて良。
治療院の現物は、品質:良だった。蜜の純度に僅かなむら、と書いてあった。杯の中のこれには、その一文がない。
「…………」
しげるは杯を持ったまま、しばらく動かなかった。
できてしまった。
銀環八十枚。大人が半年働く値段。七歳の子に届かなかった、あの薬が。深夜の宿の一室で、木杯一杯ぶん。かかった時間は、失敗を入れて半刻もない。
最初に来たのは笑いだった。すごい。すごいぞこれ。あの子みたいな子を、これからは――
その次に、遅れて、ぞわりと来た。
これを、誰かに知られたら。
崖を登って緋鈴草を採る人がいる。三日かけて煮詰める調合師が四人いる。銀環八十枚の内訳には、そういう人たちの暮らしが薄く積んである。ユハンにそう教わったのは、今日の昼だ。その値段のものを、半刻で、元手なしで。
売ったら、いくらになる?
考えかけて、しげるは頭を振った。
売らない。売るわけがない。誰かに飲ませる予定もない。これはただの実験で、できるかどうか確かめただけで。
しげるは空き瓶を一つ創り、赤金色の液体を移して栓をした。それから道具袋の一番底、畳んだ半袖ワイシャツの隣に、瓶を押し込んだ。
見えなくなると、少しだけ呼吸が楽になった。
大丈夫。誰も知らない。何も起きていない。俺は何も変えていない。
その夜は、なかなか寝つけなかった。
◇
翌朝、組合に顔を出すと、サルカ隊が受付の前で手を挙げた。
「ちょうどいい。仕事だ、魔術師どの」
依頼は商隊の護衛だった。西街道を隣町まで二日、荷を届けてとんぼ返りの四日行程。報酬は堅く、危険度は中。フェルツいわく「灰狼の出た街道は、しばらく相場が上がる」とのことで、つまり実入りのいい時期らしかった。
「西街道って」
「あんたがエディナを助けたあたりも通るぞ」
サルカがにやりとした。しげるの初陣の話は、いつの間にか隊の共有財産になっていた。
◇
商隊は馬車が四台。しげるたちは徒歩と荷台を交互に、隊列に付いて西へ進んだ。
昼過ぎ、見覚えのある草原に差しかかった。
あった。
街道の脇に、灰色の壁が立っていた。
高さは人の背の倍以上。厚さは腕の長さほど。夏草の中に、それだけが唐突に、どこまでも人工的な佇まいで立っている。二週間近く経っても、当たり前だが、そのままだった。
「……なんだ、ありゃ」
先に気づいたのはフェルツだった。
「壁?こんな街道の真ん中にか。砦の跡でもないだろう」
「前を通ったときは、なかった気がするけどな」サルカが目を細める。「私の記憶違いか?」
「いえ、僕も見た覚えないです」ユハンも首を伸ばした。「まっすぐ立ってますね。誰が何のために……」
しげるは、黙っていた。
俺です、と言えばいいだけだった。ここで灰狼を止めた壁です、と。エディナ救出の話は隊も知っている。つながる話のはずだった。
でも言えば、次の質問が来る。壁って消せないのか?出しっぱなしなのか?――消せない、と答えることになる。創ったものは消えない。そこから先を、どう説明する?どこまで話す?薬のことは?
考えているうちに、商隊は壁の前を通り過ぎた。
「まあ、いい壁だ。日陰ができる」
サルカの雑なまとめで、話は終わった。
しげるは一度だけ振り返った。灰色の壁は草原の中に立ったまま、小さくなっていった。
◇
その夜は街道脇の野営地で泊まり、翌朝、隣町で荷を降ろした。帰路の荷は軽く、商隊の空気も緩んでいた。
護衛二日目――帰路の朝だった。
朝靄の残る街道で、先頭を歩いていたフェルツが、ふいに足を止めた。
右手が上がる。隊列が止まる。
フェルツは遠くの尾根を見ていた。見ながら、背中の弓を降ろし、矢をつがえた。その一連の動きに音がなかった。
「フェルツ?」サルカが低く訊く。
「尾根の稜線。数えろ」
しげるも目を凝らした。
朝靄の中、尾根の上に、影が並んでいた。
一つ。二つ。三つ――まだいる。犬より、ずっと大きい。
「……灰狼だ。それも、群れだ」




