↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/55

第13話「一本目」

 部屋の灯りを最小まで絞って、しげるは床に座り込んだ。


 目の前に置いたのは、夕食のときにもらった空の木杯と、水差しと、雑巾。何かをこぼしたときの備えだ。準備をしてから、我に返って少し笑った。深夜にこそこそと、実験の支度。中学生の頃、親に隠れて夜中にラジオを組み立てたときと同じ手つきだった。


「よし……」


 両手を杯の上にかざす。


 昼間の光る文字を思い出す。緋鈴草の花蜜を核とした治癒促進剤。傷と臓腑の修復を早める糖質様の複合体。苦味質。滋養分。水と薬草油の二層を乳化して――


 手のひらの奥が、温かくなった。


 杯の中に、液体が満ちた。


「で、できた!」


 慌てて声を潜める。壁の向こうは他の客室だ。


 しげるは杯を灯りにかざした。


 ……色が、違う。


 治療院で見た上級回復薬は澄んだ赤金色だった。杯の中の液体は赤いことは赤いが、どんよりと濁って、底に細かい澱のようなものが沈んでいる。


 《真理視(しんりし)》を使った。


【回復薬(粗悪)】治癒促進の成分を含むが濃度にむらがあり、乳化が不完全/効果:中級品に劣る/品質:不可――


「うーわ」


 不可、ときた。


 しげるは濁った液体を見つめた。原因は何となく分かる気がした。成分の名前は覚えていた。でも「乳化して安定」のところを、言葉として覚えていただけだった。混ざり方の感覚。二層がどう溶け合っているか。あの赤金色の透明感が、どういう均一さから来ているのか。そこの理解が粗かった。


 水やパンとは訳が違う。あれは三十七年間、毎日見て、触って、飲み食いしてきたものだ。知っているの深さが違った。


「……もう一回」


 昼間の記憶を、ゆっくりと反芻する。


 格子の中の瓶。光を通した赤金色。揺らしたわけでもないのに、液体の中に一切のむらがなかった、あの佇まい。《真理視》の文字を、一行ずつ思い出す。読むのではなく、意味を確かめながら。二層が細かく細かく混ざり合って、もう分かれられなくなっている状態。牛乳みたいなものか。ああ、そうか。ドレッシングと牛乳の違いだ。


 二本目。


 濁りは減った。澱もない。だが赤金色にはまだ遠い。品質:可。


 もどかしさより、面白さが先に来ていた。仕事で新しい受発注システムを覚えたときの感覚に似ている。分からない場所が分かれば、あとは一つずつ潰すだけ。


 深く息を吸って、吐いた。


 治療院の棚の前に、もう一度立っているつもりで。


 三本目。


 杯の中で、それは澄んでいた。


 灯りを透かすと、赤金色が揺れた。治療院で見たあの色だった。いや――むらのなさで言えば、あれよりも。


【上級回復薬】緋鈴草の花蜜を核とした治癒促進剤/主成分:傷と臓腑の修復を早める糖質様の複合体、熱源を抑える苦味質、体力を支える滋養分/水と薬草油の二層を乳化して安定/品質:極めて良――


 極めて良。


 治療院の現物は、品質:良だった。蜜の純度に僅かなむら、と書いてあった。杯の中のこれには、その一文がない。


「…………」


 しげるは杯を持ったまま、しばらく動かなかった。


 できてしまった。


 銀環八十枚。大人が半年働く値段。七歳の子に届かなかった、あの薬が。深夜の宿の一室で、木杯一杯ぶん。かかった時間は、失敗を入れて半刻もない。


 最初に来たのは笑いだった。すごい。すごいぞこれ。あの子みたいな子を、これからは――


 その次に、遅れて、ぞわりと来た。


 これを、誰かに知られたら。


 崖を登って緋鈴草を採る人がいる。三日かけて煮詰める調合師が四人いる。銀環八十枚の内訳には、そういう人たちの暮らしが薄く積んである。ユハンにそう教わったのは、今日の昼だ。その値段のものを、半刻で、元手なしで。


 売ったら、いくらになる?


 考えかけて、しげるは頭を振った。


 売らない。売るわけがない。誰かに飲ませる予定もない。これはただの実験で、できるかどうか確かめただけで。


 しげるは空き瓶を一つ創り、赤金色の液体を移して栓をした。それから道具袋の一番底、畳んだ半袖ワイシャツの隣に、瓶を押し込んだ。


 見えなくなると、少しだけ呼吸が楽になった。


 大丈夫。誰も知らない。何も起きていない。俺は何も変えていない。


 その夜は、なかなか寝つけなかった。


    ◇


 翌朝、組合に顔を出すと、サルカ隊が受付の前で手を挙げた。


「ちょうどいい。仕事だ、魔術師どの」


 依頼は商隊の護衛だった。西街道を隣町まで二日、荷を届けてとんぼ返りの四日行程。報酬は堅く、危険度は中。フェルツいわく「灰狼の出た街道は、しばらく相場が上がる」とのことで、つまり実入りのいい時期らしかった。


「西街道って」


「あんたがエディナを助けたあたりも通るぞ」


 サルカがにやりとした。しげるの初陣の話は、いつの間にか隊の共有財産になっていた。


    ◇


 商隊は馬車が四台。しげるたちは徒歩と荷台を交互に、隊列に付いて西へ進んだ。


 昼過ぎ、見覚えのある草原に差しかかった。


 あった。


 街道の脇に、灰色の壁が立っていた。


 高さは人の背の倍以上。厚さは腕の長さほど。夏草の中に、それだけが唐突に、どこまでも人工的な佇まいで立っている。二週間近く経っても、当たり前だが、そのままだった。


「……なんだ、ありゃ」


 先に気づいたのはフェルツだった。


「壁?こんな街道の真ん中にか。砦の跡でもないだろう」


「前を通ったときは、なかった気がするけどな」サルカが目を細める。「私の記憶違いか?」


「いえ、僕も見た覚えないです」ユハンも首を伸ばした。「まっすぐ立ってますね。誰が何のために……」


 しげるは、黙っていた。


 俺です、と言えばいいだけだった。ここで灰狼を止めた壁です、と。エディナ救出の話は隊も知っている。つながる話のはずだった。


 でも言えば、次の質問が来る。壁って消せないのか?出しっぱなしなのか?――消せない、と答えることになる。創ったものは消えない。そこから先を、どう説明する?どこまで話す?薬のことは?


 考えているうちに、商隊は壁の前を通り過ぎた。


「まあ、いい壁だ。日陰ができる」


 サルカの雑なまとめで、話は終わった。


 しげるは一度だけ振り返った。灰色の壁は草原の中に立ったまま、小さくなっていった。


    ◇


 その夜は街道脇の野営地で泊まり、翌朝、隣町で荷を降ろした。帰路の荷は軽く、商隊の空気も緩んでいた。


 護衛二日目――帰路の朝だった。


 朝靄の残る街道で、先頭を歩いていたフェルツが、ふいに足を止めた。


 右手が上がる。隊列が止まる。


 フェルツは遠くの尾根を見ていた。見ながら、背中の弓を降ろし、矢をつがえた。その一連の動きに音がなかった。


「フェルツ?」サルカが低く訊く。


「尾根の稜線。数えろ」


 しげるも目を凝らした。


 朝靄の中、尾根の上に、影が並んでいた。


 一つ。二つ。三つ――まだいる。犬より、ずっと大きい。


「……灰狼だ。それも、群れだ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。