第12話「治療院の棚」
大神殿は、中央区の広場に面してそびえていた。
白い石積みの壁に高い尖塔。朝の光を受けて、建物全体がうっすら光って見える。しげるは門の前で思わず背筋を伸ばした。神様には会ったことがあるのに、神殿は初めてだった。妙な話だ。
「治療院は裏手です。こっちです」
ユハンは勝手知ったる足取りで、建物の脇を回っていく。
裏手に回ると空気が変わった。
表の荘厳さと違って、そこは生活の匂いがした。石造りの細長い建物。開け放たれた戸口から、煮出した薬草の匂いと、かすかな消毒めいた匂いが流れてくる。戸口の前の長椅子には、順番を待つ人が並んでいた。腕を吊った職人風の男。咳をする老婆。青い顔の子供を抱いた母親。
「ここが神殿付属の治療院です。イグゼルの怪我人と病人は、大体ここか、町の薬屋のどちらかに来ます」
ユハンは声を落として言った。
「今日は見学の許可をもらってます。邪魔にならないように、隅から」
◇
中は広い一間だった。
寝台が十ほど並び、半分が埋まっている。神官服の男女が三人、寝台の間を行き来していた。年配の神官が患者の足の傷に手をかざしている。手のひらの下で淡い光が脈打ち、患者が顔をしかめ、やがて息を吐いた。
「今のが治癒術です」
「おお……初めて見ました。あれで治るんですか」
「傷は塞がります。でも見ててください。ロズ師のあの顔」
年配の神官は術を終えると、額の汗を袖で拭った。そのまま壁際の椅子に座り込み、しばらく動かない。明らかに消耗していた。
「深い傷ひとつ塞ぐと、あれです。一日に術をかけられるのは、腕のいい人でも五、六人。僕なんてまだ三人が限度です」
「そんなに疲れるんですか」
「自分の魔力を注ぎ込んで、相手の体が治ろうとする力を無理やり早回しするんです。元手は術者の体力なんですよ。だから――」
ユハンは部屋の奥を指した。
「数をこなすのは、あっちなんです」
奥の壁一面が、棚だった。
木の棚にぎっしりと、大小の瓶が並んでいる。澄んだ赤の液。濁った緑。乾いた葉の束。丸薬の壺。瓶の一つ一つに小さな札が下がっていた。
「回復薬、解熱薬、化膿止め、痛み止め、咳止め。治療院の仕事の八割は、術じゃなくて薬です。術は最後の手段で、薬は毎日の手段なんです」
しげるは棚に歩み寄った。
札の文字が読める。《通響》のおかげだ。中級回復薬。銀環八枚。解熱薬。銀環三枚。化膿止め。銀環二枚と銅環十。
そして棚の最上段、鍵付きの格子の中に、その瓶はあった。
澄んだ赤金色の液体。小ぶりの瓶。札には、上級回復薬。銀環八十枚。
「あれが」
「はい。昨日話した、あれです」
八十枚。大人が半年働く値段。七歳の子に届かなかった値段。こうして見ると、ただの小さな瓶だった。手のひらに収まる大きさの赤い液体が、人の生き死にを分ける。
「なんでこんなに高いんですか。中級の十倍って」
「材料と手間です」
ユハンは指を折り始めた。
「主材の緋鈴草は北の高地にしか生えません。花の時期の十日間しか採れなくて、採集人は命がけで崖を登ります。それを傷まないうちに運ぶ早馬の便。着いたら選別して、乾かして、他の七種類の材料と合わせて、調合師が三日かけて煮詰めて漉して整えます。調合を一度でも間違えたら全部捨てです。資格を持つ調合師はイグゼルに四人しかいません」
「……はあー」
「採集人の手間賃、運び賃、畑で作れる材料の農家の取り分、調合師の技術料、薬屋の店賃。全部を薄く積み上げて、銀環八十枚です。誰かが暴利を取ってるわけじゃないんです。僕も最初はどこかに悪い人がいるんだと思ってました。いないんです」
棚の前で、ユハンは少し笑った。笑うしかない、という種類の笑いだった。
「シゲルさんに見てほしかったのは、これです。この棚の裏に、どれだけの人の仕事が詰まってるか。……昨日、僕、誰も悪くないって言いましたよね。その意味を、ちゃんと見てもらいたくて」
しげるは棚を眺めた。
瓶の一本一本の後ろに、崖を登る人や、馬を走らせる人や、鍋をかき混ぜる人がいる。言われてみれば当たり前のことだった。日本の会社で毎日見ていた請求書の数字の後ろにも、倉庫の人や運転手や工場がいた。世界が違っても、値段の作りは同じらしい。
それでも。
しげるの目は、上級回復薬の赤金色に戻ってしまう。
これが、あれば。
あの依頼書の子は死ななかった。値段の作りがどれだけ真っ当でも、その事実だけは動かない。
――ちょっとだけ、見てみるか。
しげるは格子越しに瓶へ意識を向けて、《真理視》を使った。
視界の端に、光る文字が流れ込んできた。
【上級回復薬】緋鈴草の花蜜を核とした治癒促進剤/主成分:傷と臓腑の修復を早める糖質様の複合体、熱源を抑える苦味質、体力を支える滋養分/水と薬草油の二層を乳化して安定/品質:良(蜜の純度に僅かなむら)――
成分。構造。混ざり方。濃さ。
まるで長年扱った商品の仕様書を読むように、瓶の中身が頭に流れ込んでくる。化学式のような厳密なものじゃない。しげるに分かる言葉と感覚に翻訳された、しかし異様に具体的な理解だった。
背中に、じわりと汗が滲んだ。
これ。
これ、俺――
創れるかも。
「シゲルさん?」
「え!?あ、いや!何でもないです!」
声が裏返った。ユハンが不思議そうにこちらを見ている。
言いかけた言葉を、しげるは飲み込んだ。
言ったら何かが変わる。そんな気がした。何がどう変わるのかは分からない。分からないから、言えなかった。
「その、勉強になるなーと思って。ほんとに」
「でしょう。僕、この棚の前に立つといつも、すごいなあと、悔しいなあが半分ずつになるんです」
ユハンは屈託なく笑った。
◇
その夜。
灰鹿亭の自室で、しげるは寝台に腰かけたまま、長いこと手のひらを見ていた。
昼間の光る文字は、まだ頭の中に残っている。指でなぞれそうなほど、くっきりと。
水は創れた。パンも金塊も創れた。神様は言っていた。よく知っているものなら何でも、と。
じゃあ、今日「知って」しまったあれは。
創れるなら、あの子みたいな子は。
いや待て、と、もう一人の自分が言う。銀環八十枚の品物だぞ。勝手に作っていいのか。誰かに怒られないか。売り物にしたら大変なことになるんじゃないか。というか、そもそも本当に創れるのか。失敗したら?変な薬ができて、誰かが飲んだら?
考えは、ぐるぐると回った。
回った末に、いつもの場所に落ちた。
――誰かに飲ませるわけじゃない。売るわけでもない。
「……試すだけなら」
しげるは、空の手のひらに向かって、小さく呟いた。




