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第99話:患者さまは、次の千年へ

 三度目の春が来た。


 雪解けの水が沢を太らせ、南の斜面の百二本の苗は七十一本が冬を越した。株分けの土が効いた。森の同居人は新しい家に落ち着いたらしい。焼けた区画の炭の上には、去年より厚く草が出た。


 そして二代目さまの枝先に芽が膨らんでいた。


「師匠。もうすぐだよ。金色が芽のところに集まってる」


 リタは毎朝、夜明けとともに森へ行き、芽の数を数えて戻ってくる。森の見守り番の帳面はもう二冊目に入っていた。


 聖樹の梢は、この冬のあいだに緑を失っていた。


 枯れたのではない。葉は落ちず、枝も折れず、幹は立っている。ただ色が抜けた。浅い緑だった梢は冬の終わりには銀色に近い灰色になって、春の光を静かに透かしていた。


「……渡し終えようと、していらっしゃいます」


 私は診療録に毎日同じ所見を書いた。梢の色、前日より薄し。二代目さまの金色、前日より濃し。見立て、継承、進行中。


  *


 芽吹きの朝はリタの声で始まった。


「師匠! 開いた!」


 駆けつけた北の斜面で、二代目さまの枝先に若葉が開いていた。一枚、二枚。小さな柔らかい明るい緑。聖樹と同じ形の葉が朝日を受けて震えていた。


「……開きましたね」


「うん。金色がいっぱい。この子の中でぐるぐる回ってる。聖樹さまと同じに、根から梢へ、梢から根へ」


 リタは若木の幹に手を当てて笑っていた。笑いながら、それからふと笑うのをやめた。


「……師匠。聖樹さまが」


 私は振り返った。


 五十歩の向こうで聖樹が立っていた。銀灰色の梢に朝日が当たっている。


 リタがゆっくりと聖樹へ歩いていった。私も続いた。根元に辿り着くと、リタはいつものようにひび割れた根の皮に手を当てた。


 長い長いあいだ、手を当てていた。


「……金色が、ない」


 声は震えていなかった。森の見守り番の声だった。


「聖樹さまの金色、ぜんぶ二代目さまに渡った。……一本も残ってない」


 私は膝をついた。根の皮に手を当てた。冷たくはなかった。木はまだそこにあった。枝も幹も根も。ただ、この木が何百年というあいだ根から梢へと回しつづけてきたものが、今朝、五十歩先の若木の中で回っている。


 看取りだ、と思った。


 最後の一息を、この子の目が見届けた。


  *


 私は診療録を開いた。


 三冊目の最後の頁。日付。所見。梢の色、銀灰。金色、二代目さまへ移行、完了。


 処置の欄に、私はしばらく筆を止めた。何と書くべきかわかっていた。わかっていて、書くのに時間がかかった。


 ――患者さまは、次の千年へ、退院なさいました。


 書いて筆を置いた。


 枯死ではない。衰弱でもない。初診で「三十年の取りすぎ」と書いた患者は、三十年の傷を抱えたまま、最後の力で次の一本に全部を渡して、渡し終えた。人の言葉で言うなら大往生だった。


 リタが私の隣で診療録を覗き込んだ。その一行を読んで、それから聖樹を見上げた。


「……退院、だね」


「ええ。退院です」


「じゃあ、泣いちゃだめだね。退院はめでたいもん」


「泣いても、よいのですよ」


「……うん」


 リタは泣いた。退院のたびに泣く薬師は、よい薬師になる。私はそう思いながら、この子の背中を撫でた。


  *


 その夜、街と山の民は灯りを持って森へ来た。


 雪祭りの並びだった。放火の夜の並びでもあった。聖樹を囲む輪に松明と灯籠が並んでいく。今夜は、祈りのためでも守るためでもない。


 見送るための灯りだった。


 長老が祠の前に立った。


「倒れる木を灯りで見送り、次の一本を灯りで迎える。わしらの祖父の祖父が、祠に彫ったとおりに」


 灯りの輪が聖樹の周りで一度ゆっくりと揺れた。それから輪の一部がほどけて、五十歩先の若木のほうへ細い灯りの列になって流れていった。


 見送りの輪と迎えの列。二つの灯りが一本の線でつながった。


 マーサが灯籠を掲げて泣いていた。ゴルドは黙って松明を掲げていた。カイルは泣きすぎて灯籠を落としかけた。ノエルと十七人の弟子が灯りの列の端で頭を下げていた。グレタは銀の薬匙を灯りにかざしていた。


「……師匠。元本は返したよ。利子も、ちょっとだけ」


 ミレーユは王都から着いたばかりの旅装のまま、若木の前で祈っていた。数えません、と小さく言って。


 ヴァイスは私の隣にいた。何も言わなかった。言わなくていいときをこの人は知っている。


 私は聖樹を見上げた。銀灰の梢が灯りの光を受けてほのかに明るかった。三十年取られつづけた。一年診た。最後の冬で渡し終えた。


「……お疲れさまでございました」


 それだけを言った。


  *


 翌朝、若木の根元でゴルドとカイルと山の民の若者たちが何かを組み立てはじめた。


 白い木の枝を弓なりに曲げて若木の上に渡していく。枝に白い花が次々と結びつけられる。織物長屋の女たちが夜なべで作った布の花だった。


「……あれは」


「花の門ってやつです、先生」


 ノエルがにやりと笑った。


「式の日取り、長老がさっき決めました。若木の若葉がぜんぶ開く日。……あと五日だそうです」


 白い花の門が、二代目さまの上に組まれていく。

三度目の春。二代目さまの若葉が開いた朝、聖樹の金色はすべて渡り終えました。「患者さまは、次の千年へ、退院なさいました」。灯りで見送り、灯りで迎える。


次回、最終話。第百話「ここで、生きてまいります」。若木の下で、式。

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