第100話:ここで、生きてまいります
式の朝、私は店の戸を開けた。
開けなくてもよい日だった。街じゅうが今日は店を閉めると思っていた。けれど私は、いつもの時刻にいつものように戸を開けた。
最初の患者はマーサだった。
「……先生。あんた、今日くらい」
「腰は、今日も痛いのでしょう」
「痛いさあ。けど」
「では、湿布を。三日の安静。式には、座って出てくださいませ」
マーサは湿布を受け取って泣き笑いの顔で出ていった。二人目は弟子入り志願の一人が、栄養剤の九回目の失敗を報告に来た。三人目はいなかった。私は店の帳面に今日の分を二行書いて閉じた。
三年近く、この店で毎日書いてきた帳面だった。
*
織物長屋の女たちが私を着替えさせに来た。
白い衣ではなかった。王都の花嫁が着る裾の長い白ではなく、詰襟のクリームのブラウスにティールの長衣。この街で私がいつも着ているものと同じ色を絹で仕立て直したものだった。肩には、マーサの長屋が織った銀の花の布。
「エプロンは、外しな」
「……はい」
「髪飾りは、そのままでいい。先生はそれで先生だ」
銀の花の髪飾りをグレタが直してくれた。節くれだった指が、片編みの髪をいつもより丁寧に整えた。
「……綺麗だよ、先生」
「ありがとうございます、婆さま」
「あたしの師匠に、見せてやりたかった」
グレタは言い終えるなり、鼻をすすった。
*
北の斜面へは歩いて行った。
街の人が、店の前から森の入口まで道の両側に並んでいた。拍手も歓声もなかった。みんな、ただ笑って手を振った。この街は私のすることをもう疑わない。初診の日にマーサが笑って言ったとおりだ。
森の入口でヴァイスが待っていた。
正装だった。二十四回目の日と同じ辺境伯の黒。違うのは、襟元に挿した小さな白い花。二代目さまの足元に今年初めて咲いた、フユリンドウの花だった。
「……先生」
「ヴァイスさま」
あとは、二人とも黙って歩いた。
*
若木の下に白い花の門があった。
門の前に長老が立っていた。門の周りに、街と山の民と王都から来た人たちが輪になっていた。アロイスとミレーユと宰相と、ユリウスとノエル。公爵家の名代は、輪のいちばん後ろに黙って立っていた。それでいい。
リタが門の脇で、森の見守り番の帳面を抱えて立っていた。
「師匠。二代目さま、今日、若葉ぜんぶ開いた。金色、いちばん濃い」
「ええ。……よい日でございます」
長老が祠の言葉を短く唱えた。倒れる木を灯りで見送り、次の一本を灯りで迎える。継ぎ目の木の下で結ばれた者は、森と同じだけ長く続く。当てにはならん、とは今日は言わなかった。
「誓いを」
指輪はなかった。
私は懐から銀の薬匙を出した。グレタの師匠の形見。目盛りの彫りのある三十年前の匙。グレタが今朝、「元本は返した。あとはあんたのものだ」と言って私の手に置いたものだった。
「ヴァイスさま。私に指輪を量る目盛りはございません。ございますのは、薬を量る目盛りだけです」
匙をヴァイスの手のひらに載せた。
「三年前、はじめました。去年、続けますと申しました。……今日から、ここで生きてまいります。あなたと、この街と、この森と。一生ぶんの調剤を一匙ずつ」
ヴァイスは匙を受け取った。受け取って、それから自分の手と匙とを私の手の上に重ねた。
「……俺は言葉が少ない。だから一つだけ言う」
低い声だった。無口な人のいちばん長い言葉は短かった。
「対価は払い終えん。一生かけても。……だから一生、ここにいる」
「それで、結構でございます」
白い花の門の下で若葉が揺れた。
*
宴は広場で夜まで続いた。
ゴルドが樽を開け、マーサが座ったまま指図をし、カイルは乾杯のたびに泣いた。ノエルが検定所の判を押した祝いの酒を配り、ユリウスはそれを几帳面に帳面につけていた。ミレーユは祈りが式に効いたかどうかを数えようとして、途中でやめて笑った。アロイスは宰相と三条の話ばかりしていた。
弟子入り志願の十七人は、祝いの席で栄養剤の失敗の数を競っていた。
夜が更けて、私は一度だけ宴を抜けた。
店の戸を開けた。灯りをつけずに帳場に立った。調剤台にゴルドが打った新しい金具。棚に並んだ薬瓶。壁に三年ぶんの帳面。
明日もこの戸を開ける。明後日も。それだけのことを続ける。
なんでもない一日一日の、小さな手当てこそが、薬師のいちばんの仕事だ。
「……お薬は、嘘をつきませんので」
誰もいない店で、私はそう言った。
*
翌朝も、私はいつもの時刻に店の戸を開けた。
戸口の石段にリタが腰かけていた。夜明けとともに森へ行ってきたのだろう。頬が冷えて赤く、胸に森の見守り番の帳面を抱えていた。
「師匠、おはよ。二代目さま、診てきた」
「おはようございます。いかがでしたか」
「金色、根から梢まで、ちゃんと回ってる。濁りも、細りも、なし」
リタは帳面を開いて見せた。二冊目の新しい頁に、たどたどしい字で一行。
――二代目さま。けいか、りょうこう。
「師匠の書き方、まねした」
「よく書けております」
私は帳場の筆を取り、その下に一行だけ書き足した。
――森の往診、これにて終了。以後の見守りは、見守り番に一任する。
「……いちにん?」
「あなたにお任せします、ということです」
リタは帳面を胸に抱えなおし、少し考えてから大きくうなずいた。それからまた森のほうへ駆けていった。森の見守り番は、式の翌日も休まない。
私は帳場に戻り、店の帳面を開いた。昨日の二行の次に、今日の日付を書いた。
戸口に足音がした。
「……先生。腰がさあ」
マーサだった。
「昨日、三日の安静と申し上げましたよ」
「座ってたさあ。宴のあいだ、ずっと」
私は湿布を包んで、マーサの手に載せた。
「では、今日も湿布を。……お大事に、なさってください」
――完――
第一話「はじめます」、第六十五話「続けます」、そして第百話「ここで、生きてまいります」。
『、辺境で薬屋をはじめます』は、これにて完結です。百話にわたってお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
森の治療は終わり、セラフィーナはこの街の薬師として、ヴァイスと、この街と、この森と生きていきます。最後まで見届けてくださった皆さまも、どうぞお大事になさってください。
お薬は、嘘をつきませんので。――白崎リラ




