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第97話:今回の対価は、俺の一生でどうだ

「……正装で治療においでになる方は、初めてでございます」


「熱で汗をかく。正装は脱ぐ。……だが、来るときと帰るときは、これで来たかった」


 ヴァイスは言い置いて、いつもの寝台に横になった。正装の上衣は椅子の背に掛けられた。辺境伯の紋の入った黒い上衣だった。


 根治、二十四回目。


 椀を渡す。ヴァイスが干す。いつもと同じ分量、同じ火、同じ椀。私は手拭いを水に浸して脈を取る位置に椅子を置いた。


 熱が来た。


 峠は、峠と呼べないほど低かった。昼前に上がって昼すぎには引きはじめた。汗は額にうっすらと浮いた程度。私は脈を取った。二年前の初診で触れた毒に濁った脈とは別人の脈だった。澄んで強く、規則正しい。


「……脈が、綺麗でございます」


「そうか」


「ええ。七年前の毒はもう、あなたの体のどこにもございません。……二十四回。満了です」


 私は診療録に書いた。ヴァイス・シュトラール。根治治療、第二十四回。完了。所見、残留毒なし。処置、以後、通院不要。


 通院不要。


 その一行を書く手が少しだけ重かった。


  *


 夕方、熱の引いたヴァイスは寝台に起き上がった。上衣を取って袖を通した。


 私は椀を洗い、手拭いを干し、椅子を元の場所に戻した。二年毎月やってきた片づけを、いつもの順番で。片づけ終えて私は振り返った。


「ヴァイスさま。これで、通う理由が無くなりましたね」


 言えた。いつもの声で。薬師が治療の終わりに言うべきことを私は言えた。


 ヴァイスは上衣の襟を正して立ち上がった。


「……ああ。無くなった」


「月に一度のお約束は本日でおしまいでございます。もう、来なくて結構です。……お大事に」


「そうはいかん」


「はい?」


「対価の話が残っている。二回ぶんまとめて払うと言った」


 私は少し笑った。この人は最後までこの人だった。


「では。……申し上げます。二回ぶんの対価は――」


「待て。先に、俺が言う」


 ヴァイスは私の前に立った。いつもなら寝台の上から「対価は言え」と言う人が、立って、正装で私を見下ろしていた。


「二年前、俺は言った。対価は言え、と。貴女が決めろ、と。……薪。屋根。治療計画。茶。留守番。二年、貴女の決めた対価を俺は払ってきた。払うたびに払い足りなかった。借りは作らん主義の男が、二年、借りを積んだ」


「積んではおりません。すべて受け取りました」


「受け取ったのは貴女だ。俺の勘定は違う。……俺の勘定では、七年ものの毒を抜いた二年に釣り合う対価はまだ払っていない」


 ヴァイスは一つ息を吸った。


「だから、新しい対価の話をする。……今回の対価は、俺の一生でどうだ」


  *


 店の中が一瞬、音を失った。薬湯の鍋の火が小さく鳴った。


 私は何も言えなかった。二年前の初診でこの人が「対価は言え」と言った日から、薪を頼み、屋根を頼み、この店には頼むものが何もなくなっても対価を言いつづけた。言うたびに対価は少しずつ私的になって、最後にはお茶の時間と留守番になった。


 この人はそのあいだずっと、別の勘定をしていた。


「……ヴァイスさま」


「答えは急がん。調剤に時間がかかるなら待つ」


「調剤には」


 私は自分の声がいつもの声ではないのを聞いた。それでいいと思った。今日だけはそれでいい。


「……調剤には、時間がかかります。一生ぶんですので」


 ヴァイスは私を見ていた。いつもの無口の顔で。それからゆっくりと息で笑った。


「……受け取る、ということか」


「受け取ります。ただし薬師の流儀で。疑って、量って、記録して、一生かけて調剤いたします。……それでよろしければ」


「それがいい。貴女はそれがいい」


 ヴァイスは手を差し出した。握手ではなかった。手のひらを上にして私の手を待っていた。私は薬湯の匂いのする手をその上に置いた。二年前、毒を診るために初めて触れた手だった。いまは毒のない手だった。


「……俺の一生は辺境にある。貴女の店と同じ場所だ」


「存じております。二年前から」


  *


 夜。


 店の戸を叩いたのはマーサだった。マーサの後ろにゴルドが、ゴルドの後ろにカイルが、その後ろに織物長屋の女たちと兵舎の兵と検定所のノエルと弟子入り志願の十七人と、杖をついたグレタと息を切らしたリタがいた。


「先生! 閣下が正装で店に入って、正装で出てきたって、街じゅうが言ってるよ!」


「……マーサさん。声が大きゅうございます」


「それで! どうなったんだい!」


 私は戸口に立って店の前の人の群れを見た。雪明かりの中で、全員が同じ顔で私を見ていた。


 隣でヴァイスが正装の襟を正した。


「――対価は払った。先生は受け取った。……それだけだ」


 街が、その夜のうちに知っていた。

「今回の対価は、俺の一生でどうだ」――「調剤には、時間がかかります。一生ぶんですので」。二年、二十四回。対価の帳尻は、ここで。


次回、第九十八話「式は、若木が芽吹く春に」。街総出の祝福と、王都からの祝い。そして、聖樹の金色が細っていきます。

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