第96話:次で、最後ですね
根治、二十三回目。
冬の初めの雪の日だった。窓の外は白く、店の中は薬湯の湯気で曇っている。二年前の冬に最初の椀を出した日と同じ景色だった。
ヴァイスは寝台に横になり、私の出す椀を黙って干した。
熱が来る。汗が出る。私は手拭いを替え、脈を取り、椅子に座る。二十三回も繰り返した手順は、もう考えなくても手が動く。
峠は低かった。いままででいちばん。昼すぎに上がった熱は、夕方を待たずに引いた。
「……軽いな」
「ええ。毒の根はもう糸より細くなっております。次の一回で糸が切れます」
「次で」
「次で、最後ですね」
言ってしまってから、私は自分の声を聞いた。いつもと同じ声のつもりだった。同じ声になっていなかった気がした。
ヴァイスは天井を見たまま何も言わなかった。
長い沈黙だった。治療の日の沈黙には慣れている。二年ぶん、この部屋で二人で黙ってきた。けれど今日の沈黙は、いつもの沈黙と重さが違った。
やがてヴァイスが言った。
「対価は言え」
「では――」
私は考えた。考えて窓の外の雪を見た。
「……今回は、考えさせてください。次の回まで」
「持ち越しか」
「ええ。二回ぶん、まとめて申し上げます。満了の日に」
ヴァイスは少しだけ首を動かして私を見た。それからまた天井に戻した。
「……いいだろう。俺も、まとめて払う」
*
冬の店は忙しい。
凍え病の季節がまた来た。兵舎の常備薬を赤と青と白に分けて納め、炭火の部屋の三つの約束を長屋に貼り直し、魔女の蜜を鍋いっぱいに煮る。一年の環が三度目に回っている。
今年は手が多い。十七人の弟子入り志願は、栄養剤の失敗を数えながら冬の薬の下ごしらえを覚えていった。マーサの長屋で寝起きする五人は、朝いちばんに長屋の年寄りの脈を取ってから店に来る。診る目は、診ることでしか育たない。
「先生。今年の冬は、楽ですね」
ノエルが検定所の窓から店を覗いて言った。
「楽ではありません。手が多いぶん、教えることが増えております」
「でも、先生が倒れない冬ですよ。去年の春みたいに」
私は手を止めた。去年の春、私は一度倒れた。全部に関わろうとして。周りを信用しているようで、していなかった。ノエルはそれを覚えていた。
「……ええ。倒れない冬でございます」
*
夕方、店を閉めて森へ出た。
雪の森は静かだった。二代目さまの根元は、リタが毎日雪を払うので黒い土が見えている。若木は細い幹のまま、雪の中にまっすぐ立っていた。
聖樹を見上げる。
浅い緑の梢に雪が載っている。その緑が秋より薄い。冬の初めの見回りで気づいたことを、私はまだ診療録に書いていなかった。書けば見立てになる。見立てになれば言わなければならない。
リタが隣に来た。
「師匠。聖樹さまの金色……少し、細くなってる」
「……ええ」
「病気?」
「いいえ。病ではありません。……この冬の初めから、聖樹さまの金色は二代目さまへ少しずつ渡っています。渡した分だけ細くなります。それは弱っているのではなくて――」
私は言葉を探した。リタにわかる言葉で、嘘にならない言葉を。
「――渡し終えようと、していらっしゃるのです」
リタは若木と聖樹を交互に見た。何かを言いかけて言わなかった。森の見守り番は、聖樹の根元に膝をつき、いつものように根の皮に手を当てた。
私は診療録を開いた。今日は書いた。
所見、梢の色、秋より薄い。金色、二代目さまへ移行中。見立て、衰弱にあらず。継承。
*
ひと月が過ぎた。満了の日の前夜、私は眠れなかった。
二年。二十四回。薬湯の椀と、熱と、汗と、手拭いと、脈と、椅子。そのあとの「対価は言え」。薪から屋根へ、治療計画へ、お茶の時間へ、留守番へ。この店の修理はもうどこにも残っていない。
明日、椀を干して熱が引いたら、この人はこの店に月に一度来る理由を失う。
それが治療というものだ。治るとは、薬師が要らなくなることだ。私はそれを誰よりもよく知っている。知っているのに眠れなかった。
窓の外で雪が止んだ。
夜明け前、私は起きて薬湯を煮はじめた。二十四回目の椀を。いつもと同じ分量で、いつもと同じ火で。特別にすると患者が身構える。
店の戸が叩かれた。
夜明けの光の中に、ヴァイスが立っていた。
いつもの外套ではなかった。辺境伯の正装だった。
二十三回目の峠は、いちばん低く。「次で、最後ですね」。対価は二回ぶん、満了の日にまとめて。聖樹の金色は、二代目さまへ渡りはじめています。
次回、第九十七話「今回の対価は、俺の一生でどうだ」。根治二十四回、満了。




