第79話:灯りを、森に
北門の鐘が鳴ったのは、私が店を飛び出すのと同時だった。
火の見の鐘ではない。山の民の狼煙に応える、辺境伯家の合図の鐘。三つ、間を置いて三つ。南の森、火。
広場にはもう人が集まりはじめていた。寝間着の上に外套を引っかけた者、桶を二つ提げた者。疫病の春に、この街は鐘の意味を覚えた。鐘が鳴ったら広場へ。それだけで、人は動く。
「先生!」
ゴルドが荷車に桶を山と積んで走ってきた。マーサが織物長屋の女たちを連れて、布を抱えている。水に浸して、火の粉を叩くための布だ。
ヴァイスはもう馬上にいた。
「兵は森の南へ回した。火元は沢の上、切り出し場寄りの斜面だ。風は南から北。……聖樹に向かって吹いている」
「わかりました」
私は荷車の上に立った。疫病の春と同じ高さだ。あのときこの広場で、私は持ち場を割った。今夜もやることは変わらない。
「皆さま。火は、病と同じです。燃え広がる道を、先に塞ぎます」
*
「ゴルドさん。水の組を。沢の水を汲み上げる列を、沢から火の手前まで、三本。桶は止めずに回してください」
「おう!」
「マーサさん。布の組を。濡らした布で、火の粉を叩く。ただし、煙の中には入らない。煙は、火より先に人を倒します。咳が出たら、風上へ下がること。これは、お約束です」
「あいよ。長屋の連中は、煙の怖さなら去年のうちに覚えたさ」
「カイルさん」
「は、はい!」
「伝令を。火の見の高台に、鐘番を一人。風向きが変わったら、二つ鳴らしてください。風が変わったら、持ち場も変えます」
カイルが駆けていく。私は次に、森の入口で待っている山の民の長へ向き直った。長老は松明を持った若者たちを従えていた。雪祭りの夜、聖樹の周りに灯りを並べた、あの顔ぶれだった。
「長老さま。お願いがございます。……灯りを、森に」
長老は私の言いたいことをすぐに汲んだ。
「聖樹さまを、囲むのだな」
「ええ。雪祭りの、あの並びで。聖樹を囲む輪の外側に、松明を。灯りがあれば、火の手の近づく場所がわかります。灯りの内側に火の粉が入ったら、そこを叩く。……輪の形が、そのまま守りの形になります」
長老は深く頷いた。
「あの灯りは、祈りのために並べてきた。代々、祈りのためにだけ。……今夜は、守るために並べよう」
松明の列が、森へ入っていった。
*
火の手は思ったより速かった。
十日の日照りで乾いた下草が、火の通り道になっている。沢の上の斜面は、もう赤い。煙が風に乗って北へ、聖樹のほうへ流れていく。
私は聖樹のそばの灯りの輪の内側に立った。ここが、今夜の隔離病棟だ。
「水の列、届きました!」
「布の組、東側に回ります!」
伝令が走り、桶が回り、布が火の粉を叩く。疫病の春に一度だけ回した歯車が、一年ぶりに同じ音を立てて回りはじめた。街は手順を覚えていた。手順を覚えた街は、強い。
けれど、火は病より速い。
「師匠!」
リタが息を切らして駆けてきた。森番小屋から、根の地図を抱えて。
「火、沢の上だけじゃない。……赤黒いの、もう一つある。東の、若芽の区画のほう」
「二か所」
私は地図を受け取った。沢の上の斜面と、東の若芽の区画。風上と、風下。二か所で火を放てば、火は聖樹を挟む。
放火だ。自然の火は、二か所から同時には出ない。
「リタさん。東の火は、まだ小さいですか」
「小さい。けど、金色のまわりに――」
「ヴァイスさま!」
馬の足音がすぐそばで止まった。
「東の若芽の区画に、もう一つ火元が。まだ小さいはずです。水の列を、一本回せますか」
「回す。……先生、火は、置かれたものか」
「ええ。二か所です。人の手で、置かれています」
ヴァイスは一瞬だけ南の赤い斜面を見た。その横顔に何が浮かんだのか、私は見なかった。見るべきものは、火だった。
「東は俺が行く。先生は、ここを」
「お願いいたします」
*
東の火は、半刻で消えた。ヴァイスの兵と水の列が小さいうちに叩き潰した。若芽の区画は、端の数本を焦がしただけで、守られた。
南の火は、まだ燃えている。
けれど、灯りの輪の内側には、一つの火の粉も入っていなかった。布の組が叩き、水の列が濡らし、山の民の松明が火の手の近づく場所を影で教えた。灯りの外側で、火は止まっている。
聖樹の根元で、私はひび割れた根の皮に手を当てた。
熱くない。煙は流れてくるが、火はまだここに届いていない。
「……大丈夫です。持ち場は、持っています」
そのときだった。
南の斜面の、赤い火の中に――人影が、一つ。
火に追われているのではない。火の中を歩いている。背を丸めた男の影。手に何か長いものを持って。火を新しく置きながら。
灯りの輪の外で、その影はゆっくりと聖樹のほうを向いた。
灯りを、森に。雪祭りの輪が、今夜は守りの輪になりました。街は手順を覚えていました。二か所の火は、人の手で置かれたもの。
次回、第八十話「殺さずに、縛る」。放火の夜、後編。火の中の人影の前に、立つのはヴァイスです。




