第78話:金色のまわりに、赤黒いのが
――王都、クローヴ商会本店。奥の間。
窓のない部屋に、男が一人、座っていた。
かつて王宮医薬局長と呼ばれた男である。一年前まで王宮の廊下を肩で歩いていた背はいまは丸く、顎の肉は削げていた。それでも目だけは、衰えていない。衰えるどころか昏く、熱を持っている。
卓の上に辺境からの早馬の文が開いてある。市の広場で、天幕の前の列が半刻で消えた、という報告だった。
「……グランヴェルの小娘め」
儂は、と男は胸の内で呟く。儂は間違っておらん。三十年、薬はこの国に行き渡った。王宮に足りぬ薬はなかった。森の一つや二つ、痩せたとて何だ。代わりの山など、いくらでもある。
だが監査は止まらない。帳簿蔵は焼いた。焼いたのに辺境の森が、年輪だの土だの根だのを調書にして送ってよこす。木が証言するなどと、誰が思うものか。
扉が開き、商会の当主――男の甥にあたるまだ若い男が入ってきた。
「叔父上。……潮時です。監査が本店に入る前に、叔父上には海の向こうへ」
「逃げろと言うか」
「商会を残すには、それしか」
「商会を残す、か」男は笑った。乾いた、粉の落ちるような笑いだった。「儂を切るつもりじゃな。去年の医薬局の連中と同じ手で」
当主は答えなかった。答えないことが、答えだった。
男は文を畳んで懐にしまった。立ち上がるとき椅子が倒れた。
「よかろう。儂は、辺境へ行く」
「叔父上!」
「森が燃えれば、証拠も消える。あの女の薬のゆりかごも消える。……森がなければ、森の証言もない」
若い当主の顔から、血の気が引いた。止める言葉を探す前に、男は部屋を出ていった。
*
――辺境、ノルデン。
夏の終わりの空気は、朝のうちだけ秋の匂いがした。
森の見回りから戻ったリタが、森番小屋の根の地図の前でじっと動かなかった。いつもなら真っ先に若芽の報告を始める子が、今日は筆を持ったまま壁を見ている。
「リタさん。どうしました」
「……師匠。変なの」
リタは地図の聖樹の位置を指した。金色の太い糸が集まる心の臓。
「聖樹さまの金色は、いつもどおり。若芽のところも、ちょっと増えてる。けど――金色のまわりに、赤黒いのが、いる」
「赤黒い」
「うん。前はなかった。森の南のほうから、じわっと……近づいてる、みたいな」
私はすぐには答えなかった。
リタの目は、病の気を色で視る。疫病のとき、この子は目に見えない病の流れを色で追った。薬草の生命力を金色に視る。ならば、赤黒いものは。
「リタさん。それは、森の中のものですか。それとも、外から」
「外。……森の外から、来てる」
病の気ではない。森の病は、三十年かけて内側から痩せる病だ。外からじわりと近づいてくる赤黒いもの。
私はこの子の視えを予言のようには扱わない。これは、この子の体質だ。人より早く人より細かく、気配の違いを嗅ぎ分ける鼻のようなもの。犬が嵐の前に落ち着きをなくすのと同じ種類のことだ。
だからこそ、真顔で聞く。
「ヴァイスさま」
小屋の外で薪を割っていたヴァイスが斧を置いて入ってきた。
「森の南に見張りを。……いえ、南だけでなく四方に。今夜からです」
「何があった」
「わかりません。ですがリタさんの目は、わからないものをわからないまま視ます。疫病のときと同じです」
ヴァイスはリタの顔を一度見て、それから地図を見て頷いた。問いはしなかった。この人は私の見立てに理由を求めたことが、初診の日から一度もない。
「兵を出す。山の民にも、狼煙の合図を伝える」
*
その夜、私は店の二階で診療録を読み返していた。
初診の日から今日まで。所見、処方、経過。一進一退。それでも進んだ一歩は、確かに頁に残っている。若芽の区画は二つに増えた。沢の砂は減った。切り出し場の斜面にはこの夏、草が戻った。
患者さまは三十年ぶりに、少しだけ楽に息をしている。
そこへ外から何かが近づいている。
窓を開けた。夏の終わりの夜風は乾いていた。雨はもう十日降っていない。森の下草は乾いている。
そこまで考えて私は手を止めた。考えたくないことを考えていた。医者は最悪の診立てを先に立てる。立てた上で、違うことを祈る。
そのとき。
夜風が向きを変えた。南から、森の側から。
乾いた草と木の皮と、それから――焦げた匂い。
私は診療録を閉じて階段を駆け下りた。
南の森に火の匂いがした。
赤黒いものは、森の外から。商会の奥を出た男は、辺境へ向かいました。そして夜風が、向きを変えます。
次回、第七十九話「灯りを、森に」。放火の夜、前編。聖樹を囲む灯りが、防衛の網になります。




