第80話:殺さずに、縛る
火の中の影を最初に見たのはリタだった。
「師匠。あの人、赤黒いのが……体のまわりに、いっぱい」
私は松明の輪の内側から、南の斜面を見た。燃える下草の向こうに、男の影が歩いている。手にした火のついた棒を、乾いた草むらへ一つ、また一つと差し込みながら。
この距離では顔は見えない。見えなくてもわかった。背の丸め方。肩で歩く癖の名残。二年前の夜会の壇の下で、白髭の奥に満足げな口元を隠していた、あの立ち方。
「……バルテルミー」
男は灯りの輪に気づいて足を止めた。聖樹とそれを囲む松明の列と、その内側に立つ私を火の向こうから見ていた。
そして笑った。声は聞こえなかった。笑ったのが、わかっただけだ。
*
男が新しい火を置こうと、斜面を横へ動いたときだった。
火の手前の闇から馬が一頭、躍り出た。
東の火を消して戻ったヴァイスだった。鞍から下りもせずに斜面を駆け上がり、男の三歩手前で馬を止めた。男が火の棒を振り上げる。馬が棹立ちになる。ヴァイスは鞍から飛び下り、棒を握る男の手首を片手で掴んだ。
骨の鳴る音はここまでは届かなかった。火の棒が地面に落ちた。
男はもう一方の手で懐から何かを抜いた。短い刃だった。ヴァイスはそれを見もしなかった。掴んだ手首をひねって男を地面に伏せさせ、膝で背を押さえ、刃を持つ手を踏んだ。
全部で三つ数えるほどの間だった。
*
私は斜面を駆け上がった。リタが止めるのも、カイルの悲鳴も、後ろに置いて。
辿り着いたとき、ヴァイスは男の背に膝を乗せたまま動いていなかった。
男は顔を土に押しつけられ、それでも喋っていた。
「離せ……離せ、シュトラール! 儂を殺せ! 殺せば、貴様も儂と同じ――」
ヴァイスは答えなかった。
私はこの人の横顔を見た。火に照らされた顔に表情は無かった。七年この人が探し続けた男が、いま膝の下にいる。この人の体に毒を入れた男。十六人の医者に匙を投げさせた男。七年の夜を、月に一度の熱をこの人に与えた男が。
ヴァイスの空いた手が、腰の剣の柄に触れた。
触れて止まった。
「……俺の獲物だ」
低い声だった。男に言ったのではない。自分に言い聞かせる声だった。
「七年、待った。……だから、生かして裁かせる」
手が柄から離れた。代わりに鞍の縄を取った。男の両手を背中で縛り、足を縛り、口は縛らなかった。罵声はそのままにさせた。
「カイル。縛って、街へ。牢の番を三人。医者を一人つけろ。手首の骨が折れている」
「……は、はい」
カイルは何かを言いかけて、結局それだけ答えた。兵が男を抱え上げ、斜面を下りていく。男は最後まで何か叫んでいたが、火の音にかき消されて聞こえなかった。
*
火は夜明け前に消えた。
南の斜面の下草は、三分の一ほどが焼けた。伐り株の列は半分が炭になった。切り出し場に近い若木は数本が失われた。
聖樹と、灯りの輪の内側と、若芽の区画は――守られた。
私は焼け跡の端に膝をついた。熱のまだ残る土に手のひらを当てる。黒い。だが、炭の下の土は湿っている。水の列が最後まで濡らし続けてくれた。
「……患者さまは、火傷を負われました。けれど、命には別状ございません」
診療録の新しい頁にそう書いた。日付。所見。火元二か所、人為。処置。水、布、灯り。経過は、明日から。
隣にヴァイスが腰を下ろした。煤だらけの顔で黙って焼け跡を見ていた。
「ヴァイスさま」
「……ああ」
「お手を、見せてください」
差し出された手は、男の手首を掴んだときに火の棒の燃え残りで火傷をしていた。私は薬箱から軟膏を出し、水で冷やして布を巻いた。いつもの手当てだ。いつもの手順で、いつものように。
巻き終えたとき、ヴァイスが言った。
「先生。……俺は、殺さなかった」
「ええ」
「殺したかった。柄に手が行った」
「ええ。見ておりました」
「……止めたのは、貴女の声だ。二年前の、初診の日の。毒は抜ける、と言った声だ。……抜けた毒は、もう俺のものじゃない。あの男も、俺のものじゃない」
私は布の端を結んだ。
「七年ものの毒は、あと四回で抜けます。……今夜の分はもう抜けておりますので」
ヴァイスは息だけで笑った。
夜が明けた。焼けた斜面の向こうで、聖樹の梢が朝の光を受けていた。浅い緑は浅いままで、そこにあった。
*
三日後。縛られた男は牢から出されて王都へ送られた。
罪状は、放火。そして三十年の監査が待つ法廷へ。身柄は、調査委員会の預かりとなった。
公判が始まる。
火の中の男を、ヴァイスは殺さず、縛りました。「七年、待った。だから、生かして裁かせる」。聖樹と若芽は守られ、患者さまは火傷で済みました。
次回、第八十一話「焦げた土の、養生」。焼け跡の手当てと、店の小さな患者たち。店は今日も開いています。




