第73話:根の道を、たどります
夏の盛りの見回りで、リタが真っ先に異変に気づいた。
「師匠。若芽の区画、金色が……薄くなってる」
駆けつけてみると、あの小指の先ほどだった若芽たちは、確かに勢いを失っていた。葉先が黄ばみ、茎がわずかに傾いでいる。ひと月前、最初の一服が効いて増えたはずの命の色が、また細っていた。
私はその場に膝をつき、土に指を入れた。
……浅い。指の一節も入らないうちに、硬い地肌に当たる。ふかふかと積もっているべき表土が、この区画だけ、削げるように薄かった。
私は若芽を一本、掘り上げた。根は伸びていたが、白く細い先が乾いて縮れている。水はけを良くしすぎたか、と一瞬疑い、すぐ打ち消した。沢の水は澄んできている。溝は正しい。足りないのは、根を抱く土のほうだ。
「水はけの溝は、効いています。腐り水は抜けました。ですが――今度は、土が足りません」
雨のたびに、表土が流れている。本来なら下草の根が網になって土を抱きとめるのに、この斜面には、その網がない。三十年前に下草ごと根こそぎ剥がされた場所は、土を抱く力を失ったままなのだ。
「悪いものを抜いたら、次は、こぼれないように支える。……人の療養と、順番まで同じでございます」
私は診療録に書き入れた。経過、一進一退。所見、表土の流亡。だが、悲観の色では書かない。一進一退と書けるのは、進んだ一歩があるからだ。
*
問題は、どの斜面から手当てするかだった。森は広く、人手には限りがある。
「リタさん。お願いがあります。あなたの目で、森の地図を描いてほしいのです」
「地図なら、森番小屋に貼ってあるよ?」
「あれは、金色の濃い薄いの地図でした。今度は――根の地図です。聖樹さまの根が、地の下でどちらへ伸びているか。あなたの目に、視えますか」
リタは若芽のそばにしゃがみ、土に手のひらを当てて、目を閉じた。長い長い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「……視える。金色の、細い糸。土の下を、川みたいに流れてる」
「では、その川を描いてください。疫病のとき、水の道を地図にしたのと同じやり方です」
あの春、この子の目は、目に見えない病の道を地図にして街を救った。今度は、目に見えない命の道を地図にする番だった。
リタは三日かけて森を歩き、森番小屋の壁いっぱいに、根の地図を描き上げた。聖樹を心の臓として、金色の糸が四方へ走る。太い糸、細い糸、途切れかけの糸。
「よく描けました。……手当ての順番が、これで決まります」
根の糸が今も通っている斜面から、先に土を戻す。糸の切れた場所に土を盛っても、抱き手がいない。療養の献立は、患者さまの体に聞くのがいちばん早い。
その日のうちに、最初の斜面へ落ち葉を運んだ。森の北側、乱獲を免れた区画の落ち葉を、籠で。若芽の根元に薄く敷き、上から細い枝を渡して、雨で流れないように押さえる。
「これ、毛布?」
「ええ。表土の毛布です。落ち葉は腐って土になり、土は根を抱きます。三十年かけて剥がされたものを、籠一杯ずつ戻します」
リタは籠を背負い直して、もう一往復、と言った。
*
その地図を眺めていて、私は一本の糸に目を留めた。
ひときわ太い金色の糸が、森の南西へまっすぐに伸びている。リタの筆はその糸を、紙の端まで描いて、途切れさせていた。
「リタさん。この太い糸は、どこまで」
「森の外まで。……ずーっと先。描ききれなかったの」
南西。私は頭の中で、この地方の絵図を広げた。森の南西に何があるか、思い当たって、指が止まった。
クローヴ商会の、切り出し場。
疫病の源となった水源のそばで、あの商会が木を伐り出していた場所。去年、水源に蓋をして以来、立ち入りを差し止めているはずの土地。
聖樹の根は、地の下で、あの切り出し場まで届いている。
「……患者さまの体の一部が、まだ、あの商会の敷地の中にあるということですか」
根の道の先を、診に行かなければならない。それも、できるだけ早く。
治療は一進一退。表土が流れる難所に、リタの「根の地図」で手当ての順番をつけました。ところが、いちばん太い根の道は森の外――クローヴ商会の切り出し場まで届いていました。
次回、第七十四話「切り出し場の、帳面」。立ち入り検分です。




