第69話:彫りの違う、同じ判
――ところ変わって、王都。
議場の空気は、火のついた薬草のようにくすぶっていた。
「三十年の遡及監査など、前例がない!」
声を張り上げたのは、旧勢力の重鎮の一人だった。かつて聖女を旗印に担ぎ、あの茶番の断罪劇に拍手を送った側の男である。疫病のあと、彼らの声はずいぶん小さくなった。それでも、帳簿に火がつくと知れば、声は大きくなる。
「前例がないのは、三十年も膿を放置した怠慢のほうだ」
壇上の王太子アロイスは、静かに応じた。病を得る前の彼なら、ここで美しい正論を朗々と歌い上げただろう。いまの彼は歌わない。数字だけを置いた。
「監査対象は、クローヴ商会が王宮医薬局に納めた薬草の全記録。三十年。冊数にして、およそ二千四百。……なお、商会の帳簿蔵は六日前に焼けた。原因は、調べのつかぬ失火だそうだ」
議場がざわめいた。失火という言葉を信じる者は、この部屋に一人もいない。信じないという事実こそが、監査の必要を雄弁に語っていた。
「商会側の帳簿は焼けた。だが、受け取った側の台帳は焼けていない。王宮府の書庫に、三十年ぶん、そっくり残っている」
アロイスは議場の扉へ目をやった。
「――入れ」
*
扉が開き、小柄な老官吏が入ってきた。両腕に、変色した台帳の束を抱えている。よろめきもせず、老いた背筋は定規のように真っ直ぐだった。
王宮府書記官、ダレル。四十年、納品台帳の判を検めてきた男である。
「書記官ダレル、罷り越しましてございます」
老人は台帳の束を演台に置き、議場をゆっくりと見渡した。
「儂の役目は、判の照合にございます。納品の判、検品の判、支払いの判。四十年、毎朝それを検めてまいりました。面白みのない仕事と、笑われながら」
誰も笑わなかった。
老人は懐から、柄のすり減った拡大鏡を出した。四十年、毎朝それで判を覗いてきたのだろう。柄の木は、握る手の形に窪んでいた。
「此度の監査に先立ち、儂は手元の台帳を検め直しましてございます。三十年ぶん。……ご報告申し上げねばならぬことが、一つ」
ダレルは、いちばん古い台帳と、いちばん新しい台帳を並べて開いた。
「クローヴ商会の検印は、三十年、同じ判にございます。同じ判、の、はずにございます。――しかるに」
節くれだった指が、二つの朱印を差した。
「彫りが、違いまする。縁の欠け、押しの癖、朱の沈み。古い判は職人の手彫り、新しい判は……手前どもの目には、別の手が彫り直した写しと映りまする。判が二つあるということは、帳面も二つあるということ。表の帳面に表の判を、裏の帳面に裏の判を」
ダレルは拡大鏡を演台に置いた。
「儂は、判の良し悪しを申し上げる役目ではございませぬ。二つある、と申し上げるのが役目にございます。二つある理由は、殿下と委員会がお調べになることかと」
役目の線を一歩も越えない物言いだった。越えないからこそ、誰にも反論の足場がなかった。
議場が、今度こそ静まった。
偽の検印。それは商会の罪であると同時に、三十年それを見逃してきた王宮側の、誰かの罪でもある。判を検める役目は、書記官だけのものではないからだ。
*
議場が引けたあと、宰相はアロイスの執務室で茶を含み、ふうと息をついた。
「ようやるわい、あの爺さま。四十年、判ばかり見て生きた男の目は、法より正確じゃ」
「辺境の弟子たちも、同じ目をしていると聞く。判を見るのではなく、判に触るのだと」
「毎日ほんものに触っておる手は、にせものに触れた瞬間に気づく。……嬢やの受け売りじゃろうが、爺さまのやり口と同じじゃ。あの店は、人を育てるのがうまい」
「これで監査は止まらない。……止まらないが、爺よ。これは、どこまで届く」
「さての。判の写しを彫らせた者。彫らせて得をした者。得の割り前を受けた者。……蔓を引けば、思わぬ庭の垣根から根が出るものよ」
宰相は茶碗を置いた。老獪な目が、笑っていなかった。
「覚悟しておくがよい、殿下。三十年ものの蔓は、太いぞ」
王都、開戦。四十年判を見つづけた老書記官ダレルが、動かぬ一手を置きました。彫りの違う「同じ判」――帳面が二つあるということです。
次回、第七十話「対価は、屋根でございます」。辺境に戻って、根治十九回目と、ちょっと不穏なお客さまのお話。




