第68話:森の、最初の一服
聖樹の森の治療、初日。私が最初に出した処方は、薬草ではなかった。
鍬と、もっこと、白柳の枝の束だった。
「……調剤と聞いていたが」
ヴァイスが鍬を担いだまま言った。腕まくりをした街の男衆が、その後ろにずらりと並んでいる。ゴルドの声がけで集まってくれた、総勢二十人の「調剤助手」だった。
「これが調剤でございます。患者さまの体が大きいので、乳鉢も大きいだけです」
診療録の見立てはこうだ。聖樹の根元の窪地に、雨のたびに濁った水がたまる。逃げ道のない水は腐り、根を浸し、根は呼吸を止める。人でいえば、悪い水が胸にたまる病と同じ。ならば処方も同じだった。
――抜く。
「窪地から沢まで、浅い溝を一本通します。深さは膝まで。掘った溝の底に白柳の枝を敷き、その上に砂利を戻します」
「柳を、敷く?」
「白柳の皮は、痛み止めの材料です。そして柳の床は、水を漉します。濁りと腐りを、枝が受け止めてくれます。……大きな患者さま用の、大きな漉し布でございます」
男衆がどっと笑って、鍬が入った。
溝の筋は、朝のうちに私が紐を張って決めてあった。窪地から沢まで、ゆるく一方へ下る一本の線。勾配は、水を張った皿を置いて確かめる。皿の水が片側へ寄れば、そちらが低い。大きな患者の胸の水を抜くのに、道具は皿一枚で足りる。
「先生、深さはこれでいいか」
「もう一掌。底が硬い層に当たるまで掘ってください。やわらかい土の上を流しても、水はまた沈みますので」
掘り上げた土は、溝の下手に土手として積ませた。捨てる土はない。痩せた森で、土は薬と同じくらい貴重だ。
*
土を掘る音。枝を渡す音。指図をするゴルドのべらんめえ。私は溝の勾配を測りながら、水の顔色を見て回った。
昼を過ぎたころ、溝が通った。
たまっていた黒い水が、ゆっくりと動き出す。白柳の床を這って、渋を落とし、砂利に磨かれて、沢へ。夕方には、窪地の水かさが目に見えて減っていた。あれほど重かった森の足元から、じわりと熱が引いていくようだった。
私は朝に汲んでおいた窪地の水と、いま沢へ流れ出た水を、二つの瓶に並べた。朝の水は灰色に濁り、瓶の底に泥が沈んでいる。夕方の水はまだ色が残るが、日にかざせば向こうが透けた。舐めると、渋がひとつ薄い。
「……漉し布が、効いております」
診療録に瓶の色を書き留める。人の患者なら尿の色を見るところだ。森の患者は、沢の水が同じことを教えてくれる。
「師匠!」
森の奥からリタの声が飛んできた。駆けつけると、リタは若い下生えの前にしゃがみ込んで、震える指で一点を指していた。
露出した聖樹の根の、ひび割れのきわ。そこに、小指の先ほどの若芽が立っていた。
「金色が……ひとつ、増えた」
リタの目にしか視えない色を、私は疑わない。疑わないが、薬師として言うべきことは言った。
「一服で治る病ではありません。ぬか喜びは、明日の落胆のもとです」
「わかってる。わかってるけど……聖樹さま、飲んでくれたよ。師匠のお薬」
……ええ。飲んでくださいました。私は診療録に記した。初回投薬、受け付け良好。患者さまとの信頼関係、成立。
*
その夕方、現場にグレタが杖をついて現れた。掘り上げた溝と伐り株の列を順に見て回り、いちばん古い株の前で足を止めた。
「ああ……ここだよ。あたしが娘のころ、師匠と薬草を摘みに入った斜面だ」
グレタは株の年輪に、節くれだった指を這わせた。
「三十年前の秋さ。クローヴの若旦那が人足を連れて来て、ここの木をぜんぶ伐らせた。根の周りのフユリンドウごと、根こそぎね。あたしの師匠が止めに入って、杖を折られた。……忘れるもんかい」
クローヴの若旦那。のちの王宮医薬局長、バルテルミー。
私は診療録の新しい頁を開いた。年輪の詰まりが始まる年と、グレタの記憶の年が、ぴたりと重なる。物の証拠と、人の証言。二つが揃えば、それは調書になる。
「婆さま。いまのお話、調書に書かせてください。お名前も」
「おや、いいのかい。あたしゃ年寄りだよ。法廷なんぞに立てるかね」
「立てます。三十年前を見た目は、婆さまの目だけですので」
グレタはにやりと笑って、書きな、と言った。乱獲の物証、第一号。焼けない帳簿の、最初の写しができた。
*
十日あまりのち。調書の写しを王都へ運んだ早馬が、返書を携えて戻ってきた。
持ち帰った報せを読んで、私はしばらく黙った。ヴァイスが覗き込む。
「どうした」
「……クローヴ商会が、王家に申し出たそうです。枯れゆく聖樹の森を憂い、私財を投じて――森の再生事業を行いたい、と」
森を枯らした張本人が、森を救う側の顔で、名乗りを上げてきた。
最初の一服、聖樹さまはちゃんと飲んでくださいました。若芽ひとつ。そして年輪とグレタ婆の記憶が重なって、乱獲の物証第一号が調書になりました。
ところが敵は、燃やす次の手ではなく――「森の再生事業」を申し出てきます。次回、第六十九話「彫りの違う、同じ判」。王都の議場が動きます。




