第66話:次の患者は、あの森でございます
春の終わりの朝。店を出る私の薬箱は、いつもより重かった。
薬包の代わりに、土を採る小さな匙と、水を汲む瓶と、まっさらな帳面が入っている。往診の支度としては、我ながら妙な取り合わせだった。
「先生、往診かい」店の前を通りかかったマーサが目を丸くした。「ずいぶん大荷物じゃないか。どこの寝込みだい」
「南の森でございます」
「森ぃ?」
「ええ。患者さまが、木ですので」
マーサはしばらく黙って、それから腹を抱えて笑った。笑いながら、うちの孫の夜泣きも診てくれる先生だ、木くらい診るだろうさ、と勝手に納得して帰っていった。ありがたい街だと思う。この街は、私のやることをもう疑わない。
*
南の森の入口で、私は薬箱を提げ直した。
人の患者なら、まず顔色を見る。舌を見て、脈に触れて、暮らしぶりを聞く。相手が森でも、やることは変わらないはずだった。
「では――初診を、はじめます」
背負い籠のリタが元気に手を挙げた。ヴァイスは無言で斧と縄を担いでいる。護衛と力仕事は俺の領分だ、と昨夜のうちに言い切られていた。対価はあとで聞く、とも。
まず、顔色。森の外周をゆっくり歩く。梢の色が、おかしい。春の終わりなら若葉が光を弾く時季なのに、緑が浅く、ところどころ灰がかっている。
次に、舌と脈。土を掘った。表土は指の第二関節ほどで硬い層に当たる。掘り上げた土は乾いて軽く、握っても崩れた。落ち葉の層が薄すぎるのだ。長年、下草ごと剥がすような採り方をされてきた土は、雨を蓄える力を失っていく。
沢の水も見た。水は澄んでいるのに、流れの底に細かな砂が多い。上の土が痩せて、雨のたびに流れ込んでいる証拠だった。瓶に汲んで、日にかざす。舐めてみると、かすかに渋い。木の根が漉すはずの雑味が、漉されないまま流れている味だった。
「まずいのか」とヴァイス。
「人が飲むぶんには、障りございません。ただ、森にとっては……熱のある人の汗と同じです。体の中のものが、出ていってはいけない形で出ています」
「師匠、これ」
リタが太い根を指した。地表に露出した聖樹の根だ。人の腿ほどもある根の皮が、ひび割れて浮いていた。
「根が、呼吸できていません。……人でいえば、寝床が石になって、床ずれを起こしているようなものです」
「聖樹さま、痛いのかな」
「痛みは、もう慣れてしまっているでしょう。三十年ものですので」
私は手帳を開いた。真新しい帳面の表紙に、朝のうちに題を入れてある。
――『聖樹さま診療録』。
街の防疫で立てた帳面と、同じ型だ。日付、所見、処方、経過。相手が木でも、記録が薬師の武器になることは、疫病の日々が教えてくれた。
*
昼すぎまで歩いて、森の主だった区画を診て回った。診療録の頁は所見で埋まっていく。よい報せは少なかった。それでも、書ける。書けるということは、診られるということだ。
「見立てを、申し上げます」
切り出した岩に腰を下ろし、私はふたりの前で診療録を読み上げた。
「病名は――三十年の、取りすぎ。木の病でも、呪いでもございません。人が三十年かけて、返さずに取りつづけた。それだけでございます」
「……治るのか」
ヴァイスが低く聞いた。私はうなずいた。
「処方は、返すこと。水を返し、土を返し、休みを返します。ただし、飲めばすぐ効くお薬ではありません。年単位の療養になります。人の患者さまなら、根治治療というやつでございます」
「二年か」
「もっとかかります。なにしろ、こじらせて三十年ですので」
ヴァイスがかすかに笑った気配がした。あなたの五年ですら手こずったのです、と続けようとして、やめておいた。
「療養の献立も、人と同じでございます。まず、これ以上悪くしないこと。採ることを、止めます。次に、眠らせること。傷んだ区画に人を入れません。それから、少しずつ食べさせます。水の道を直し、落ち葉を戻し、土を養います」
「気の長い話だな」
「ええ。ですから、今日から始めます。気の長い話ほど、初日が大事ですので」
リタは、露出した根のそばにしゃがみ込んだまま動かなかった。小さな手を、そっとひび割れた皮に当てている。
「ねえ師匠。聖樹さま、あのとき言ったでしょ。……“わたしを、継いで”って。あれ、どういう意味なんだろう。継ぐって、誰が。何を」
「わかりません」
私は正直に答えた。わからないことを、わかったふりで塗らないのは、診察の基本だ。
「けれど、意味を知りたければ、まず患者さまに長く付き合うことです。付き合ううちに、言葉の足りない患者さまの言いたいことは、だんだん聞こえてまいります。……あなたが、いちばん聞こえる耳をお持ちですし」
リタは根に当てた手をそのままに、こくりとうなずいた。
*
帰り際、森の南寄りの斜面で、ヴァイスが足を止めた。
「先生。これを見ろ」
示された先に、切り株が並んでいた。一つや二つではない。苔をかぶった古いものから、切り口のまだ新しいものまで、斜面に沿って列をなしている。
私は膝をつき、いちばん古い株の年輪を数えた。指でなぞって、途中で数えるのをやめた。数えるまでもなかった。外側の三十本ほどの輪だけが、極端に詰まって細い。育つ力を吸い上げられながら、それでも生きようとした年月の痕だった。
「……患者さまは、ずっと記録をつけていてくださったようです」
三十年。人の帳簿は燃やせても、木の帳簿は燃やせない。
私は診療録の新しい頁に、伐り株の列の位置と数を書き込んだ。所見の欄の最後に、一行。
――この森は、証人である。
森の初診、終わりました。病名は「三十年の取りすぎ」、処方は「返すこと」。そして診察の帰り道、古い伐り株の列が――三十年ぶんの年輪という、燃やせない帳簿が見つかりました。
次回、第六十七話「証拠は、森が持っています」。王都から、一通の書状が届きます。




