第65話:辺境で、薬屋を続けます
疫病の長い冬が明けた。
辺境ノルデンには、いつもの暮らしが戻っていた。市が立ち、子どもが走り、老人が日なたでうたた寝をする。あの恐ろしい熱に街ぜんたいが呑まれかけたことが、まるで遠い夢のように思える、穏やかな春の日々だった。
私の薬屋は、あいかわらず小さいままだった。学び舎を兼ねることになっても、私は店の看板を下ろさなかった。
今日も、腰痛持ちのマーサがカミツレを求めに来る。
「先生、いつものおくれな。……ああ、それと、うちの孫がまた夜泣きでさ」
「三つは、夜泣きの盛りでございますね」私は包みを結ぶ手を止めた。「では、カミツレを少し多めに。お孫さんには、白湯に一滴、蜂蜜を。……三つでしたら構いません。けれど一つに満たないお子には、決してお使いにならないで。あれは赤子には毒になることがございます」
「へえ。甘いだけの物だと思ってたよ」
「甘いだけの物ほど、量と歳を選びます。……夜泣きのお薬は、抱く人の腕のあたたかさがいちばんですけれど」
「はは、それなら、うちは売るほどあるよ」
子どもが擦り傷に泣きべそをかいて駆け込んでくる。私はその一人ひとりに薬を渡す。派手な疫病との戦いも大切だった。けれど、この、なんでもない一日一日の小さな手当てこそが――薬師のいちばんの仕事だった。
「師匠、次の患者さん、入りまーす!」
リタの元気な声が響く。ミレーユが両の輪の使い方を若い弟子に教えている。ユリウスが記録を取り、ノエルの明るい声が待合を和ませる。私が育ててきたものが、今、私の薬屋をあたたかく満たしていた。
乳鉢の音。薬草の匂い。誰かの笑い声。……この店の空気を胸いっぱいに吸い込む。前の世の白い棚の前では、ついに吸えなかった空気だった。
*
夕暮れ、店を閉めたあと。私はひとり店の前に立って、看板を見上げた。
二年前、私はこの場所に、たったひとりで薬箱を提げてたどり着いた。婚約破棄され、追放され、なにもかもを失って。あのとき私はこの店の戸を開けながら、心の中でつぶやいたのだった。
――、辺境で薬屋をはじめます、と。
あれから二年。私は辺境伯の古傷を治し、弟子を育て、雪崩を越え、そして疫病から街を守り抜いた。失ったと思っていたものより、ずっと大切なものをこの手に得た。居場所を。仲間を。守るべき街を。そして――そばにいたいと思える人を。
看板は、二年ぶんの風雨に色あせていた。けれど、その文字はまだはっきりと読める。色あせても、読める。続けてきたものだけが持つ色だった。
私は看板にそっと手を触れて、こんどは声に出してつぶやいた。
「――辺境で、薬屋を続けます」
はじめる、ではなく、続ける。それが、この二年で私がたどり着いた答えだった。この土地に根を張り、この街とともに、これからも、ずっと。
隣に、いつのまにかヴァイスが立っていた。何も言わず、ただ同じ看板を見上げていた。それだけでじゅうぶんだった。
*
けれど――辺境の穏やかな夕暮れの、その、いちばん端。
南の森の方角をじっと見つめていたリタが、ふいに息を呑んだ。
「師匠……!」
リタの大きな目が見開かれていた。震える指で南の空を指す。
「聖樹さま、が……最後の力で光ってます。灰色の中に、ちいさな金色がひとつだけ。……まるで、なにかを呼んでるみたいに。助けて、って。ううん、ちがう。……“わたしを、継いで”って。そう言ってるみたいに視えるんです」
枯れゆく聖樹の、最後の願い。それをリタの目だけが捉えていた。
私は南の空を見据えた。金色の、小さな、けれど確かな光を。あの森を、聖樹さまを救わなければ、この大陸から薬が尽きる。三十年の歪みを、クローヴ商会を断たなければ、次の悲劇がまた繰り返される。
疫病は終わった。けれど、それはもっと大きな戦いの――はじまりにすぎなかった。
「ヴァイスさま。リタ。……みんな」私は静かに、けれど確かに言った。「次の患者は、あの森――聖樹さま、でございます」
春風が南から吹いた。かすかに若葉の匂いがした。まだ、この森は死んでいない。ならば、まだ間に合う。
――さあ。辺境の薬屋の、いちばん大きなお仕事が、これからはじまる。
――第二部「疫病編」・完
第二部「疫病編」、ここまでお読みくださってありがとうございました。
戸を開けてから二年。セラフィーナがたどり着いた答えは「はじめる」ではなく「続ける」でした。けれど枯れゆく聖樹さまが、リタの目にだけ、最後の願いを託します。「わたしを、継いで」。
第三部『聖樹再生編』、開幕です。次回、第六十六話「次の患者は、あの森でございます」。土を診て、水を診て、根を診る――木の患者さまの初診から。三十年の歪みとの決着も、その先に。
続きが気になりましたら、ブックマークで森までお付き合いください。




