第64話:春に、話したかったこと
雪がすっかり溶けた、よく晴れた日。ヴァイスが私を館の外へ連れ出した。
めずらしく行き先を言わなかった。馬車も使わなかった。並んで丘の道をゆっくりと登る。道端に春の草が萌えはじめていた。ヨモギの若芽。スミレ。……つい薬効を数えてしまう私に、ヴァイスがぼそりと言った。「今日は、薬草の話は、なしだ」
向かった先は、丘の上の養蜂場だった。ミツバチが羽音を立てて、花から花へと飛び交っている。あたたかな春の匂いが満ちていた。
――思い出した。冬至の夜、蜂蜜の壺を無造作に置いて、この人は言ったのだった。「春になったら、養蜂場を見に来るといい」。そして雪祭りの夜、その約束の上にもうひとつ、言葉を重ねた。「……その時に、話したいことがある」と。あの約束を疫病が押し流したまま、ずっと果たされずにいた。
「……ようやく、春が来たな」ヴァイスがぽつりと言った。「疫病で、ずいぶん遅くなった。だが、約束は約束だ」
彼は南の森をいちど見やり、それからまっすぐに私に向き直った。
*
いつも飾らないこの人が、その日ばかりはずいぶんと言葉を探しているようだった。大きな身体が少しこわばっている。
「俺は口がうまくない。気のきいたことも言えん」ヴァイスはぶっきらぼうに切り出した。「だから、思っていることをそのまま言う。……聞いてくれ」
「はい」
「五年前、毒を受けて、俺はもう誰も信じられぬと思った。痛みを隠して、領地を背負って、ひとりで生きていくものだと。……そこへ、貴女が来た」
ミツバチの羽音だけが、二人のあいだに響いていた。
「貴女は俺の痛みを治し、毒の謎を解き、街を、森を守ろうとした。そして俺に――ひとりで背負わなくていい、と教えてくれた。俺が貴女に教えたはずのことを、いつのまにか俺が貴女から教わっていた」
ヴァイスはまっすぐに私を見た。その目に、いつもの仏頂面の奥に隠していたものが、ひとつ残らずあらわれていた。
「セラフィーナ。……俺は、貴女がそばにいてほしい。薬師としてでも、患者としてでもなく。ただ、貴女というひとりの人に。――これが、春に話したかったことだ」
*
私はその言葉を、胸のいちばん深いところで受け止めた。
前世でも、この世でも、私はいつもひとりだった。誰かを守り、誰かのために働き、そしてひとりで倒れた。誰かに「そばにいてほしい」と望まれることなど――一度もなかった。
目の奥が熱くなる。けれど、こんどの涙は悲しみではなかった。
「ヴァイスさま」私はゆっくりと口を開いた。「わたくしも、同じ気持ちでございます」
ヴァイスのこわばった肩が、ふっとゆるんだ。
「わたくしも、あなたのそばにいたいのです。あなたがわたくしに、休んでいい、守られてもいい、と言ってくださったとき。……わたくしは初めて、生きていてよかったと思えたのでございます。前世の分まで含めて」
二人の想いが、たしかに通い合った。飾らない、けれどこの上なく確かな、相互の確かめ合いだった。
けれど――私は少し悪戯っぽく続けた。
「ただし、ヴァイスさま。婚礼のお話は、まだいたしませんよ」
「……なに?」
「あの森の戦いが残っております。聖樹さまを救い、三十年の歪みを断つ。その大きな戦いを、二人で共に越えてから。――そのときに、あらためて続きを伺います。急ぐ薬は浅く効くもの。ゆっくり効かせたほうが、深く、長く続きますので」
ヴァイスは虚を衝かれた顔をして、それからめずらしく、声をあげて笑った。
「……かなわんな、貴女には。わかった。その戦いを越えてから、だ。――必ず越えるぞ。二人で」
「はい。二人で」
帰り道、ヴァイスは養蜂場の蜜を小さな壺にひとつ持たせてくれた。補水の蜂蜜。いちばん最初の、あの処方の材料を、この人は覚えていたのだ。……薬草の話は、なしのはずでは。私がそう言うと、ヴァイスはそっぽを向いて答えた。「これは薬草ではない。……ただの、土産だ」
春の陽の下、ミツバチの羽音に包まれて。私たちは想いを確かめ、そしてまだ見ぬ次の戦いへの約束を交わした。
物語の、情緒的な着地です。第十八話・第二十九話で交わされ、疫病に押し流されていた「春に、話したいことがある」の約束が、ついに、養蜂場で果たされます。飾らないヴァイスが、言葉を探しながら、まっすぐに――「貴女に、そばにいてほしい」。
前世でも今世でも“ひとり”だったセラフィーナが、初めて「そばにいてほしい」と望まれ、想いを通わせます。けれど彼女は、婚礼の話は、まだしない。「森の戦いを、二人で越えてから」――ゆっくり効かせたほうが、深く長く続くお薬、というわけです(成立は、この先へ、大切に取っておきます)。
いよいよ次回が、第二部の最終話。第六十五話「辺境で、薬屋を続けます」。そして、第三部への号砲が――。




