第6話:リタと聖樹さま
「先生、こっち! この斜面、フユリンドウの群生があるんだ」
秋晴れの山道を、リタさんが山羊のように駆けていく。
今日は店を半日休みにして、二人で薬草採取に来ていた。冬が来る前に、自分の足で産地を見ておきたかったのだ。
ノルデンの山は、噂以上だった。
日当たりの斜面にフユリンドウ。沢沿いに上物のセリバオウレン。岩陰には、王都なら金貨で取引されるユキノシタギクまで自生している。
「すごい……。ここは、薬草の蔵ですね」
「でしょ! ばあちゃんが言ってた。ノルデンの山は、国じゅうの薬箱だって」
リタさんの採取は、見ていて気持ちがいい。
根を残して摘む。群生の三割は必ず残す。土を崩したら、戻す。
「上手ですね。誰に習ったんですか?」
「ばあちゃんと、あと母ちゃん。母ちゃんは、あたしが八つのときに流行り病で死んじゃったけど」
リタさんは、こともなげに言った。
「父ちゃんは知らない。だからあたし、ばあちゃんの家の子。……ばあちゃんも、ほんとのばあちゃんじゃないんだけどね」
摘んだリンドウを丁寧に籠へ並べる手は、それだけ、と言うには、あまりに大切そうだった。
*
昼餉のあと、リタさんが「先生に見せたいものがある」と言って、帰り道を尾根に変えた。
街道から見えた、あの巨木だった。
近くで見ると、息を呑むほど大きい。幹回りは大人十人でも足りない。樹皮は銀灰色で、触れるとひやりと滑らかだった。
けれどやはり――枝に、葉がほとんどない。
「聖樹さま、っていうの」
リタさんが、幹に手のひらを当てた。
「ノルデンの守り神さま。山の薬草はぜんぶ、聖樹さまの子どもなんだって。ばあちゃんたちは、春と秋にお参りするんだ」
「……聖樹さま、また痩せた」
声が、ふっと小さくなる。
「あたしが小さい頃は、夏になると葉っぱで空が見えないくらいだった。お祭りの日は、この下にみんな入れたんだよ。なのに、年々さ。……ねえ先生。木のお医者って、いないのかな」
私は樹皮にそっと触れた。
薬師の目で見ても、原因が分からない。虫害の痕はない。雷の傷もない。土が痩せたにしては、周囲の下草は青々としている。
ただ、木だけが、静かに衰えている。
そのとき、奇妙なことに気づいた。
聖樹をぐるりと囲む斜面だけ、薬草の姿が極端に少ない。あれほど豊かな山なのに、ここだけ、刈り取られた後のように。
「リタさん。この辺りの薬草は、採らない決まりなんですか?」
「ん? ううん、逆。聖樹さまの周りのが一番上等だから、昔からみんな欲しがるの。……でも最近は、生えてもすぐなくなっちゃう」
すぐ、なくなる。
その言葉が、なぜか小さな棘のように、心に引っかかった。
「先生、帰ろ。日が暮れる前に下りないと」
「ええ。――聖樹さま、お邪魔しました」
私は巨木に一礼した。リタさんが「先生もお参りするんだ」と笑う。
郷に入っては、です。それに……神さまだろうと木だろうと、弱っている相手に頭を下げるのは、薬師の癖のようなもの。
*
街の灯りが見え始めた頃、私は切り出した。
「リタさん。お話があります。あなたを、正式に弟子にしたいんです」
リタさんが、ぴたりと足を止めた。
「で、弟子……? あたしが? でも、あたし、字もろくに……」
「字は教えます。計算も、調合も、生薬学も。十年かけて、一人前の薬師にします。……あなたの目は、財産です。磨かないのは、もったいない」
夕暮れの山道で、リタさんは籠の紐をぎゅっと握った。
「……お金、ないよ。弟子入りのお金」
「お給金から天引き――と言いたいところですが、不要です。そのかわり、条件がひとつ」
私は、彼女の目を見て言った。
「あなたが一人前になったら、今度はあなたが、誰かに教えること。それが弟子入りの代金です。……私も昔、そうやって教わりましたので」
前の世の、白衣の先輩たちの顔が、少しだけ頭をよぎった。
リタさんは、しばらくうつむいていた。やがて顔を上げたとき、目は真っ赤だったけれど、声はいつもの倍、元気だった。
「……っ、はい! よろしくお願いします、師匠!」
師匠、と。
その響きに、胸の奥がふいに温かくなる。先生でも、令嬢でもない。この子が初めて、自分で選んでくれた呼び名だった。
「はい、よろしくお願いされました。――では弟子その一、本日の復習です。フユリンドウの根を干すときの注意点は?」
「えっ、いきなり!? えーっと……陰干し! 直射日光は苦味が飛ぶから!」
「満点です」
*
街道の最後の曲がり角で、私はふと振り返った。
夕陽の逆光の中、荷馬車の列が、聖樹の丘の麓を北へ向かっていく。五台、六台……いや、もっと。幌の隙間から覗くのは、山積みの薬草の束。
そして先頭の幌に、見覚えのある紋章があった。
王冠と、杖。
――王宮御用達の、買い付け商隊の印。
私が納品を管理していた八年間、王都が辺境まで直接買い付けに来たことなど、ただの一度もなかった。
それが、私が去ったとたんに。
「師匠ー、置いてくよー!」
リタさんの声に、私は紋章から目を離した。荷馬車の車輪の音は、もう夕闇に溶けていた。
聖樹の周りで、薬草が「すぐなくなる」ようになったのは――いつからだろう。私は、それを訊きそびれたことに、坂を下りきってから気づいた。
弟子その一、誕生です。そして聖樹さまの周りで、何かが静かに進んでいるようで。次回は王都へ。あちらでは、お薬がだんだん効かなくなっているそうです。ブックマークと評価は、弟子の教科書代に充てさせていただきます。




