第5話:お得意さま第一号は週に三度来る
「閣下。お薬は煎じ薬に切り替えます。朝晩二回、十日分。……苦いですよ」
「構わん。苦いのは効く証――」
「それ、迷信ですので」
「…………いいから寄越せ」
辺境伯さまの通院が始まって、半月。
週に三度、あの方は律儀に通ってくる。最初は領主館へ呼ばれるのかと思っていたら、「店に行く。患者が通うのが筋だろう」と、護衛も連れず軍馬一頭でふらりと現れるようになった。
おかげで市場通りは大騒ぎである。北の国境を守る領主さまが、市場の外れの小さな薬屋に入っていくのだ。最初の日など、人だかりで店の前が見えなくなった。
「リタ。これは口止め料だ」
「わ、飴だ! ……でも閣下、もうみんな知ってるよ?」
「…………だろうな」
そう。みんな知っている。
そして、街の空気が変わったことも、みんな気づいていた。
*
「先生、聞いたかい。閣下が剣の鍛錬を再開なすったって。五年ぶりだそうだよ」
カミツレのおばあさん――常連になったマーサさんが、買い取り台帳の前で目を細める。
「兵舎の連中が、泣いて喜んでたとさ」
解毒は順調だった。あの灰青色の変色は前腕の半ばまで退き、夜の発作の間隔も確実に開いている。左手の痺れは、指先を残すだけになった。
「執務の決裁が倍の速さになった」と従者のカイルさんは言う。「閣下が夕食を残さなくなった」と料理人が言う。
「閣下が、笑うようになった」と――それは、街のみんなが言う。
領主の体調は、領の体調だ。
この街の人たちが私の店に挨拶をくれるようになったのは、火傷の少年の口コミのおかげだけでは、たぶん、ない。
*
さて。その閣下であるが。
「……おい。屋根の北側、瓦が二枚浮いていたぞ」
本日の診察を終えた辺境伯さまは、なぜか店を出るなり腕まくりをして、梯子に登っていた。
「閣下!? お、お降りください、患者がなにを……!」
「対価だ」
「お代でしたら、毎回きちんと頂いておりますが」
「薬代は薬の対価だ。これは別件だ。先日の煎じ薬は、いつもより効きが良かった。ならばその分、借りがある。借りは作らん主義だと言ったはずだ」
意味が分からない。
この半月、あの方は薪を割り、看板を直し、井戸の滑車を替え、建て付けの悪かった裏戸を一日で修理していった。北の領主は借りを嫌う――それは聞いていたが、ここまでとは聞いていない。
「先生、あきらめなよ」と、リタさんが達観した顔で言う。「閣下、ああ見えてすっごく嬉しいんだよ。やっと『返せる』んだもん」
……返せる、ですか。
五年間、十六人の医者に金を払い、誰からも何も返ってこなかった人の「対価」は、瓦を打つ音をさせて、今日も屋根の上だ。
「――そういえば閣下。来週から、薬の時間を夜に変えます」
「? なぜだ」
「閣下の発作は、冷えた夜半に出ます。でしたら効き目の山も、そこへ合わせるべきですので。……お薬は、患者さまの暮らしに合わせて初めて、嘘をつかなくなりますから」
屋根の上で、瓦を持つ手が止まった。
「…………そういうことを」
「はい?」
「そういうことを、当たり前の顔で言うのは、貴女くらいだという話だ」
それきり閣下は黙って、いつもより少し乱暴に、瓦を打ち付けた。
*
店が、少しずつ街の一部になっていく。それは、患者さんの顔ぶれでわかる。
「先生、うちの亭主の腰がねえ。……本人は医者嫌いでさ。これ、黙って飲ませてもいいやつかい」
「布を張るお仕事のかたですね。煎じ薬より、温めて効く湿布を。匂いの少ないものにしますので、『お酒の友だ』とでも言って貼ってさしあげてください」
「……あんた、なんで亭主が布職人だって分かったんだい」
「爪の藍染めと、右肩だけ盛り上がった肉付きで。――お薬は嘘をつきませんし、患者さんの体も、同じことを正直に教えてくれますので」
マーサさんに連れられて来た織物長屋の人たちが、いつのまにか常連になっていた。腰痛、あかぎれ、子どもの寝つき。大きな病ではない、暮らしのすぐ隣にある不調ばかり。
王宮では、決して私の手に回ってこなかった種類の仕事だ。
こういう薬こそ、ほんとうは、いちばん作りたかったのだと思う。
*
夜。帳簿を付け終えた私に、リタさんがお茶を淹れてくれた。夕食は彼女作の山菜雑炊で、たいへん美味しかった。
なお先週、私が夕食当番に立候補した結果については、互いに二度と触れない約束である。鍋は無事だった。鍋だけは。
「ねえ先生。先生ってさ、王都で偉い人だったんでしょ。……戻りたいって思わないの?」
「思いませんね」
即答だった。自分でも少し驚くくらい。
正直な売り手がいて、治った腕を見せに来てくれる患者さんがいて、屋根を直してくれるお得意さまがいる。薬師にとって、これ以上の街がどこにあるだろう。
「私、今がいちばん楽しいんです。以前のぜんぶを含めても」
「へんなの。こんな田舎なのに」
「こんな、ではありません。いい街です」
*
――同じ頃。王都。とある伯爵家の夜会で。
「ねえ、気のせいかしら。最近、お薬の値が上がっていません?」
「あら、あなたも? うちの常備薬、先月から一割五分も。それでいて、効きが悪いのよ。子どもの熱が、ちっとも下がらなくて」
「医薬局も質が落ちたものねえ。……そういえば昔は良かった。ほら、あの悪役令嬢が婚約者だった頃は」
「やだ、あなた。お薬と令嬢に、何の関係があるのよ」
扇の陰で、夫人たちは声を立てて笑った。
何の関係があるのか。
その問いに最初に行き着くのが、笑っている彼女たち自身になるとは――まだ、誰も知らない。
子どもの熱は、来月にはもっと下がらなくなる。
対価(物理)が今日も積み上がっていきます。次回はリタと、あの「枯れた木」のお話。ブックマーク・評価という対価も、作者は遠慮なく受け取る主義です。




