第58話:名誉は、要りません
王都から正式の使節が、辺境ノルデンに下った。
王宮の紋を掲げた、物々しい行列。白馬が四頭、儀仗の兵が二十。街道に街の人々が鈴なりになって見物した。あの行列が、うちの先生のところに来たらしい――噂は火より速く街を駆けた。
ダレル書記官に導かれて、辺境伯の館の広間に、王の勅使が参じた。かつて私を「無能」と断じ、断罪の場から追い出した、あの王都が。
私は一張羅の、それでも薬屋の身なりのまま、広間に立った。ヴァイスが私の斜め後ろに黙って控えてくれた。位からいえば、辺境伯が主で、薬屋が従だ。……この人は、あえて逆に立った。
勅使はうやうやしく、王の言葉を読み上げた。
「――薬師セラフィーナ・グランヴェルの宮廷追放は、王家の重大な過ちであった。王太子アロイス殿下の長年の宿痾を、宮廷の名だたる薬師たちは八年をかけて、ついに突き止められなんだ。それを、そなたはただひとり見抜いていた。……我らがその病の名を知ったのは、二年前。追放されたそなたがみずから差し出した、あの記録によってである」
勅使はいったん言葉を切った。それから巻物の次の行へ目を落とす。
「そして――殿下が長く『栄養剤』と呼び、我らの誰もが、たかが滋養の薬と侮った、あの小瓶。あれこそが、殿下の御命を八年のあいだ繋ぎ留めていた薬であった。此度、その真価が、疑いようもなく明らかとなった」
広間が静まりかえる。
「王家は、先の謝罪にようやく実を伴わせたい。――そなたには、宮廷薬師の位を正式に授ける。いや、それ以上の。宮廷医薬の頂の座を用意し、叙勲をもって、その功に報いたい。どうか、王都へ戻られよ」
名誉の回復。頂の座。叙勲。――二年前に私を泥の中へ突き落とした王都が、今、両手でそれを差し出していた。
*
私はしばらく、その勅使を静かに見つめていた。
二年前の私がこの言葉を聞いたなら、どれほど胸がすいたことだろう。私を捨てた者たちが頭を垂れ、私の価値にひれ伏している。絵に描いたような、意趣返しの場面だ。
けれど。いまの私の胸には、そんな熱いものは湧いてこなかった。ただ、静かな、澄んだ心地があるだけだった。
頭に浮かんだのは、王宮の大広間ではなく――朝の診療所だった。乳鉢の音。リタの笑い声。グレタの茶。弟子たちの帳面。窓から差す、辺境の光。……私の身体はもう、あの場所でできている。
私はまっすぐに勅使を見て答えた。
「ありがたき、お言葉でございます。――ですが、名誉は、要りません」
勅使がはっと顔を上げた。広間がどよめいた。
「わたくしは、いま、辺境ノルデンのしがない薬屋でございます。この街には、わたくしの薬を待つ人がおり、育てるべき弟子がおり、看取るべき老人がおります。二年かけて、この手で築いた居場所でございます。頂の座と引き換えに、それを手放すことはいたしません」
私は続けた。
「王都がわたくしの薬の価値に気づいてくださったこと。それは、うれしゅうございます。けれど――気づいてくださったからといって、戻る義理はございません。行き先は、いつも自分で選びます。わたくしはこの辺境を選びました。それだけのことでございます」
恨みではない。皮肉でもない。ただ静かに、自分の居場所を告げる。――これが私の、いちばん静かな返しだった。頂を差し出されてなお、それを要らぬと言えること。それこそが、失って気づかせた側の、ほんとうの勝ちだった。
勅使はしばらく言葉を失っていた。それから、ふかぶかと頭を下げた。
「……その儀、しかと王へお伝え申し上げる。……時に、薬師どの。ひとつだけ、お願いが」
「なんでございましょう」
「殿下の薬の処方は……このまま、頂けるだろうか」
「もちろんでございます」私は微笑んだ。「患者と薬師のあいだに、都も辺境もございませんので」
*
勅使が去ったあと。ヴァイスがそっと隣に立った。
「……頂を、蹴ったな」
「ええ。蹴りました」私は微笑んだ。「わたくしの頂は、王都にはございませんので。――この辺境に、ございます」
ヴァイスはふっと口の端を上げた。そして低く、けれど確かに言った。
「……そうか。俺は、うれしいよ」
王太子アロイスの宿痾は、辺境の処方で抑えられた。かつて誰も気づかなかった、あの小瓶の真価は、ついに王都に認められた。二年ごしの意趣返しは、その最も静かで、最も気高いかたちで完結した。
残る敵は、もうひとり。すべての糸を握る、あの男だけだった。
*
辞退の報せは早馬で王都へ戻った。
――辺境の女は、王家の招きさえ、蹴った。
その一行が、祈りの権威を守りたい者たちの口から口へ、かたちを変えて渡っていく。「聖女さまを、薬の下働きに落とした女」。「王家の頭を垂れさせた女」。古い王都は、まだなにも終わっていなかった。
二年ごしの意趣返し、その最終形です。かつて自分を「無能」と断じて追放した王都が、頭を垂れ、名誉回復も、頂の座も、叙勲も差し出す。二年前なら胸がすいたであろうその言葉に、セラフィーナが返したのは――「名誉は、要りません」。
恨みでも皮肉でもなく、ただ静かに、自分の居場所を選ぶ。頂を差し出されてなお「要らぬ」と言えること。それこそが、失って気づかせた側の、ほんとうの勝ちでした。王太子の持病と、あの小瓶の真価をめぐる長い糸が、いちばん気高いかたちで完結します。
そして、残る敵は、ただひとり。次回、第五十九話「三十年の、かたち」。すべての糸が、一本の縄に。
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