第56話:教えを、乞いにまいりました
聖女ミレーユが辺境ノルデンに着いた。
供も連れず、聖女の煌びやかな装いも脱ぎ、質素な旅の身なりで。二年前、王都の夜会で見た、光をまとった聖女の面影は、そこにはなかった。ただ、疫病の中で多くの死を見送り、みずからの無力と向き合ってきた、痩せた、けれど澄んだ目をしたひとりの娘が立っていた。
街の人々が遠巻きにささやき合う。聖女さまだ。あの聖女さまが、なんで、うちの先生のところに。……その視線の中を、ミレーユはまっすぐに歩いてきた。
診療所の土間で向かい合う。リタが心配そうに、私の後ろに控えている。この子は、王都で私に何があったかを、いつのまにか、だいたい知っている。小さな拳が袖をきゅっと握っていた。
ミレーユは、深く、深く頭を下げた。
「グランヴェル様。……二年前、わたしはあなたさまから多くのものを奪いました。婚約者を。宮廷での居場所を。そして、名誉を。わたしは持ち上げられるまま、それを当たり前に受け取ってしまいました。……ごめんなさい。詫びて済むことでないのは、わかっています。それでも、まず謝らせてください」
その声は震えていた。けれど、逃げてはいなかった。
私はしばらく、その垂れた頭を見つめた。恨み言のひとつも言えたところだ。かつて私は、この人のせいですべてを失った――そう思っていた時期もあった。
けれど、目の前のこの人は、あの断罪の場で笑っていた人ではない。祈りが届かぬ夜を幾百も越えて、それでも目をそらさなかった人だ。人は変わる。変わろうとする人の頭を踏むために、私は薬師をしているのではない。
私は静かに答えた。
「頭を、お上げくださいまし、ミレーユさま。……過ぎたことは、流れた水と同じでございます。もとには戻りません。それに――」私は少し間を置いた。「あなたさまがわたくしから奪ったと仰るものは、じつは、ひとつも奪われていなかったのでございます」
ミレーユが顔を上げた。
「わたくしは宮廷を追われて、この辺境で新しい居場所を得ました。奪われたと思っていたものより、ずっと大切なものを。……ですから、あなたさまが負い目に感じることは、なにもございません」
*
ミレーユの目に涙が盛り上がった。けれど、彼女はそれをこぼす前に、まっすぐに私を見て言った。
「グランヴェル様。わたしは、あなたさまに、教えを、乞いにまいりました」
その言葉に、私は耳を傾けた。
「わたしの祈りは、病の根を断てません。症状をいっとき撫でるだけ。それを、わたしは疫病でいやというほど思い知りました。……祈りしか知らぬわたしは、いざというとき人を救えない。それが、こわい。だから――どうか、教えてください。祈りではない、ほんとうの、病と向き合う術を。わたしははじめから学びなおしたいのです」
聖女が頭を垂れて、追放された薬師に弟子入りを乞う。かつての対抗者が、同じ道を志す仲間になろうとしている。
私はその、まっすぐな覚悟を受け止めた。
「……よろしゅうございます。お教えいたします」私は微笑んだ。「ただし、聖女さま。ひとつだけ、はじめに申し上げておくことがございます」
「なんでしょう」
「わたくしのもとで学ぶなら、まず――手を、洗っていただきます。聖なる手であろうと、なかろうと。薬師の一日は、手洗いからはじまりますので」
ミレーユはきょとんとして、それからふっと笑った。疲れきった顔に、初めて素の、やわらかな笑みが浮かんだ。
「……はい。喜んで。師匠」
その夜、リタがこっそり私に訊いた。
「師匠。……ほんとに、いいんですか。あの人のこと」
「リタさん。あなたの目には、あの方の色は、どう視えました?」
「……きれいな色、でした」リタは少し悔しそうに認めた。「疲れてて、細くなってるけど。嘘のない、まっすぐな色」
「なら、それが、答えでございます」
*
こうして、聖女ミレーユは辺境の薬屋の新しい弟子となった。けれど、この一件は王都に、小さくない波紋を投げかけることになる。
聖女ともあろう者が、追放された薬師に頭を垂れて弟子入りする。それを快く思わぬ者たちが、王都にはまだ大勢いた。祈りの権威でうまい汁を吸ってきた者たちが。
和解の、その裏で。古い王都は、また静かに牙を研ぎはじめていた。
第六章「聖女和解」の幕開けです。かつて婚約者と居場所と名誉を“奪った”聖女ミレーユが、供も装いも脱ぎ捨てて、辺境へ。深く詫びる彼女に、セラフィーナは「奪われたものは、ひとつもなかった。もっと大切なものを、ここで得たから」と返します。恨みではなく、赦し。対抗ヒロインが、同じ道を志す“同志”へと変わる、大事な回です。
そして弟子入りの第一歩は――「まず、手を洗ってください」。聖なる手も、薬師の一日は、手洗いから。
けれど、聖女が薬師に弟子入りしたことは、王都の旧勢力を刺激します。次回、第五十七話「魔法は症状、薬は原因」。二つの力が、ひとつになります。




