第55話:疫病、制圧。ただし――
辺境ノルデンに、南方熱の新しい病人がひとりも出ない日が、ひと月続いた。
その朝、私はユリウスの地図を、最後にもう一度見渡した。赤い印は増えていない。白札は残り三枚を数えるだけ。隔離病棟の寝台に残る病人は、快方の三人だけ。……数字は、そろった。
私は隔離病棟の入口に、静かに札を掲げた。「本日をもって、隔離を解きます」――疫病の制圧だった。
街の人々が集まってきた。歓声はなかった。かわりに、深い、深い安堵の吐息が広場を満たした。誰もが疲れきり、そして誰もが、大切な誰かをこの病で失っていた。手放しでは喜べない。けれど、生き延びた。守り抜いた。その事実だけが、静かに胸をあたためた。
その日の夕、街の教会で、亡くなった人たちの弔いの鐘が鳴った。エルサの名も読み上げられた。私は目を閉じて、その名のひとつひとつを聞いた。数えきれなかった命。数えて、覚えて、忘れない。それが、生き残った薬師の務めだった。
「先生」マーサが涙をぬぐって言った。「あんたが来てくれてなかったら……この街は、丸ごと消えてたよ」
「いいえ、マーサさん」私は首を振った。「守ったのは、みなさまでございます。手を洗い、水を煮て、隣人を支えた、みなさま、ひとりひとり。わたくしは、その手を少しだけ束ねたにすぎません」
ゴルドが、リタが、グレタが、弟子のユリウスが――そして、遠く王都のノエルが。それぞれの手で、この街と王都を守り抜いた。私はそのすべての手に、深く頭を下げた。
*
けれど、私の胸には、二つの苦い澱が残っていた。
ひとつ。元凶の、バルテルミー。
宰相の調査は進んだ。買い占めに関わった商人が幾人か捕らえられ、訴追された。けれど――バルテルミー本人は、するりとその網を抜けた。すべてを下の商人たちの独断だったと言い張り、みずからの手下を切り捨てて。
帳簿は巧妙に書き分けられていた。買い占めの注文は、すべて商人の名で。医薬局の検印も「盗まれた」ことになっていた。切り捨てられた商人たちは口を閉ざした。……閉ざさせる何かを握られているのだろう。利権の本体には、まだ司直の手が届かない。
「尻尾を切って逃げましたか」私は唇を噛んだ。「三十年、そうやって生き延びてきた男でございます。……一度で仕留められるとは思っておりませんでした。けれど」
私は証拠の箱を、そっと閉じた。偽薬の瓶。買い占めの控え。精製毒の調書。切り出し場の印。――一つひとつは、まだ決め手に欠ける。けれど、いつかこの点が線になり、面になる。その日まで、私は諦めない。
もうひとつの澱は、あの森だった。水源は浄めた。けれど、聖樹さまは弱ったまま。森は枯れたまま。奪われつづける限り、いつかまた水は濁る。森を癒すこと。それは、この疫病では終わらない、もっと大きな次の戦いだった。
*
制圧から数日。王都から一通の書状が届いた。
差出人は――聖女、ミレーユだった。
私はその細い文字を追った。何度も書き損じては、あらためたのだろう。行の頭が少しずつ震えていた。
――グランヴェル様。祈りでは止められなかった病を、あなたさまの薬が止めました。わたしはこの目で、それを見ました。わたしの信じてきたものは、間違っていたのかもしれません。いいえ、間違いを認めるのが怖かっただけなのかもしれません。
――どうか、わたしに本物の医療を教えてくださいませんか。祈りしか知らぬわたしに、病と向き合うほんとうの術を。……そのために、わたしは辺境へまいりたいのです。
かつて私から婚約者を奪い、私を追放へと追いやる、そのきっかけとなった聖女。その人が頭を垂れて、辺境の薬屋に教えを乞おうとしていた。
リタが横から覗き込んで、目を丸くする。
「せ、聖女さまが、来るんですか!? ここに!?」
「……さて、どういたしましょうね」
私は書状を、そっと膝に置いた。窓の外、初夏の陽が明るかった。長い疫病の季節が、ようやく終わろうとしていた。
(……さあ。次は、どんなお客さまが、この辺境を訪ねてこられるのでしょう)
ついに、南方熱を制圧。歓声ではなく、深い安堵の吐息で満ちる広場を、書きたかった回でした。守ったのは、手を洗い、水を煮て、隣人を支えた、街のひとりひとりです。
けれど、苦い澱が二つ。元凶バルテルミーは、手下を切り捨てて網を抜け、逃げ切る。そして、枯れた聖樹の森は、癒されぬまま――これは、第三部の、大きな戦いへ。
そして最後に、思いがけない差出人からの書状が。かつて自分を追放へ追いやった聖女ミレーユが、「本物の医療を教えてほしい」と。次回より第六章「聖女和解」。第五十六話「教えを、乞いにまいりました」。
――熱は退きました。けれど、逃げ切った男と、枯れたままの森が残っています。疫病編は、まだ半分です。ブックマークと☆は、次の戦いへ向かう、辺境の路銀にさせていただきます。




