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第53話:祈りでは、止まらなかったもの

 辺境の疫病は退いた。けれど、封鎖された王都は、まだ祈りの中であえいでいた。


 王都から届く報せは、日ごとに暗くなった。手順書は届いている。王太子の名で写しも配られた。けれど、紙はそれだけでは人を動かさない。紙に書かれたことを、隣でやってみせる者が要る。


 私はノエルを王都へ送ることにした。


「ノエルさん。あなたの下町仕込みの声かけが、今度は王都で要ります」私は手順書の束を彼に託した。「王都の民に、水を煮て、手を洗う――この当たり前を根づかせてきてください。むずかしい言葉ではなく、あなたの言葉で」


「へ、へえ……おれで、いいんですか、そんな大役」ノエルは目を白黒させた。


「あなたが、いいのです。宮廷の偉い薬師より、下町のおかみさんに信じてもらえるのは、あなたのような人でございます。――行ってらっしゃい。あなたなら、できます」


 ノエルはぐっと唇を結び、それから下町の子らしい、いい笑顔でうなずいた。「まかしてください、師匠!」――今度は言い直さなかった。


 旅立ちの朝、私は彼の荷に小さな包みを足した。喉にいい飴と、疲れに効く生薬。……人に薬を届ける者が、まず倒れないように。私がやっと覚えた理屈を、この子にははじめから持たせてやりたかった。


  *


 王都、大聖堂。


 運びこまれる病人の列は、いっこうに短くならなかった。司祭たちは、なおも祈りつづけている。聖女ミレーユも、痩せ細った身体で祈りを絞り出していた。けれど、熱は引いては戻り――根が断てない。


 そこへ辺境から、ノエルが手順書を携えて着いた。


 はじめ、宮廷の薬師たちは、下町育ちの若造の言うことなど、と鼻で笑った。けれど、ノエルはめげなかった。まず病人のあふれる区画で、水を煮て飲ませ、窓を開け、手洗いの盥を置いた。代替の解熱剤を配った。


 下町の言葉で、笑い話を交えて、おかみさんたちに手洗いの歌を教えた。指のあいだ、爪のさき、手首まで洗って、ちょうど歌一回ぶん。子どもらが面白がって、歌いながら洗った。歌は説教より速く広まった。


 すると――その区画から、新しい病人が出なくなった。祈りつづけた区画では、なお人が倒れつづけているのに。


 差は、あまりに明らかだった。


「……祈りでは、止まらなかった」ミレーユはその二つの区画を見比べて、立ちつくした。「わたしが、あれほど祈っても。……止まらなかったものが、水を煮て、手を洗うだけで止まっていく」


 若い聖女の信じてきたものが、音を立てて崩れた。けれど、その崩れた場所から彼女は目をそらさなかった。そらさずに、じっとその差を見つめていた。


 翌朝、ミレーユは祭服の袖をまくり、ノエルの区画に立っていた。


「……手伝わせて、ください。水の煮方から、教えてください」


「え、あ、聖女さま!? いや、その、恐れ多い……」


「祈りは夜にします。昼は手を動かします」ミレーユは静かに言った。「止まる方を、やります。それだけのことです」


  *


 聖女が袖をまくった。その一事が王都を変えた。聖女さまがなさるなら、と貴婦人が盥を運んだ。司祭たちも渋々、窓を開けた。祈りと手仕事は敵ではなかった。夜に祈り、昼に手を動かす。その形が少しずつ、都に根を張っていった。


 ひと月のうちに、王都の疫病も退いていった。祈りではなく、辺境の薬学が――公衆衛生と原因療法が、王都を救った。


 これで、はっきりと証された。回復の魔法は、症状をいっとき消すだけ。病の根は治せない。ほんとうに病を止めるのは、地味で確かな知識と手当てだ。辺境で薬屋をはじめてからずっと言いつづけてきたことが、疫病という最も大きな舞台で、疑いようもなく実証された。


 ノエルからの手紙には、こうあった。――聖女ミレーユさまが毎日、おれの手伝いをしてくれます。祈りをやめて、水を煮て、手を洗って。あんなに偉い人が、下働きみたいに。……なんだか、別人みたいです、と。


 私はその手紙を読んで、静かに微笑んだ。祈りに逃げていた王都が変わりはじめている。そして、いちばん深く変わろうとしているのは――あの若い聖女なのかもしれなかった。


 けれど。疫病は退いても、これを「稼ぎ時」と嗤ったあの男は――バルテルミーは、まだどこかで野放しのままだった。


「回復魔法は、原因を治せない」の、完全実証回です。祈りつづけた区画では人が倒れつづけ、ノエルが水を煮て手を洗わせた区画では、病人が出なくなる。あまりに明らかな差の前で、聖女ミレーユの信じてきたものが、崩れます。けれど彼女は、その差から目をそらさなかった――ここが、次の“再生”への入口です。


第一部から引いてきたテーマ「魔法は症状、薬は原因」が、疫病という最大の舞台で、疑いようもなく証されました。


疫病は退いた。でも、これを「稼ぎ時」と嗤った男は、まだ野放し。次回、第五十四話「五年前の、毒」。敵対の糸と、恋の糸が、交わります。

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― 新着の感想 ―
聖女様はずっと「変わろうとしてた」けど、方法がわからなかった。 何せ辺境に行って教えを請いたいとまで思っていましたし。 祈りも普通に大事だと思う 「病は気から」は本当なので。 自己回復力以上の驚異に…
35話でバルテルミーから高い薬を買った南の領地がどうなっているのかも気になります 北の辺境から王都、王都から国内外に情報が早く正確に広がっていく事を願います
野放し過ぎなのが、納得いかないですね。宰相、王太子などは証拠を完全に固めてから、と言って国民に負荷をかけているが、おかしいのでは。叩けば埃が出るのだから、国民に負荷をかける前に叩く必要があるでしょう。
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