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第50話:街が、ひとりで歩きだす

 私が寝込んでいる、その二日のあいだ。


 私は恐れていた。私がいなければ、街は崩れてしまうのではないか、と。前世で私が倒れたあと、職場がどうなったのか――それを知るのが怖かったように。


 けれど。目を覚まして、リタの報せを聞いた私は、言葉を失った。


「師匠。街、ちゃんと、回ってます。ううん、師匠がいたときより、みんな、しっかりしてるくらい」


「……くわしく、聞かせてちょうだい」


「えっとですね」リタは指を折りはじめた。「新しい病人、きのうが四人で、きょうは、二人。白札は、毎日、増えてます。薬は、グレタばあちゃんが仕切ってて。ユリウスの地図も、ノエルの配り物も、ぜんぶ、いつもどおり。……あと、マーサおばさんが、師匠の分まで働くって、はりきってます」


 織物長屋では、マーサがおかみ連中を束ねて、手洗いと水煮を隅々まで徹底させていた。病人の運びは、ゴルドたち力自慢が手際よく。隔離病棟は、ユリウスの記録とノエルの声かけで、静かに回っていた。グレタは代替の解熱剤を、辺境三十年の勘で次々と調えていた。


 そして――街の人々が、私の配った『病を防ぐ、七つのお約束』を、誰に言われるでもなく、当たり前に守っていた。水を煮て、手を洗い、風を通す。子どもですら「厠のあとは、手を洗うんだよ」と言い交わしていた。


 衛生の心得は、もう私の手を離れて、街ぜんたいの暮らしの一部になっていた。


 午後には、マーサが見舞いに来た。手土産は、山盛りの蒸かし芋だった。


「先生。あんたが寝てるあいだ、あたしら、ひとつも手を抜かなかったよ。……だからさ、これからも、たまには寝な。あたしらを信用してくれた証だと思って、うれしいからさ」


 寝ることが、信用の証になる。……そんな考え方があるのか。私は蒸かし芋をひとつ、ありがたくいただいた。素朴な甘さが目に沁みた。


  *


 私は寝台から、そっと起きて窓辺に立った。


 通りでは、人々がそれぞれの役目を、黙々とこなしている。誰もうろたえていない。恐れに呑まれず、自分にできることを、静かにやっている。私が、あれほど身を削ってひとりで背負おうとしたものを――街は、みんなで、軽々と担いでいた。


(……ああ。これで、いいのですね)


 胸の奥の、凍りついていたものが、また少し、溶けた。


 前の世の職場を思い出す。私が倒れたら、どうなっただろう、と、ずっと思っていた。きっと混乱して、迷惑をかけて――だから、倒れられなかった。


 ……いいえ。ほんとうは、逆だったのだ。「私がいないと回らない」ようにしか、私は働けていなかった。仕事を抱えることしか知らなかった。渡すという手が、あの世界の私にはなかったのだ。


 薬師が身を削って、すべてを背負う。それは、じつは、いちばん危うい医療だった。私が倒れれば、すべてが止まる。そんな街は脆い。ほんとうに強い街とは――薬師がいなくても、ひとりで歩ける街だ。


 私がこの二年、辺境でやってきたこと。弟子を育て、街に心得を配り、人々に「自分で守る」術を渡してきたこと。そのすべてが、この二日で実を結んでいた。渡したものが、いつのまにか街の手に根づいていた。


 傍らにヴァイスが立った。


「街を、信じてやれ」彼は静かに言った。「貴女が育てた街だ」


「……はい」私はうなずいた。「わたくしはもう、ひとりで走らなくて、いいのですね」


 答えの代わりに、大きな手が、ぽん、と頭に置かれた。……この人の、この不器用な手当ては、どうやら癖になりそうだった。


  *


 立ち直った私は、ようやく冷静に、この疫病の“根”を考えられるようになった。


 ユリウスの記録を、はじめからたどりなおす。几帳面な帳面を、一冊、また一冊。いちばん最初に南方熱を持ち込んだ、あの行商人。彼がどこから来たか。彼より前に病んだ者はいなかったか。点を、南へ、南へとたどっていく。


 ユリウスが隣で、地図に線を引いていく。街道。宿場。港町。……そして、そのすべての水が、どこから流れてくるか。


 すると、すべての線が、ひとつの場所に収束した。


 ――南の、森。あの、薬草の育たなくなった枯れかけの森。そこを流れる川の、水源。


 リタが以前視たものを思い出した。病の気と、枯れゆく命の色が、森の奥で重なっている、と。


「ヴァイスさま。……この疫病の根は、あの森にございます」私は地図の南端を指した。「森で何かが起きている。それを突き止めなければ、この病は、本当には終わりません」


セラフィーナが恐れていたのは、「自分がいないと、街が崩れる」こと。けれど、目を覚ました彼女が見たのは――いたときより、しっかり回る街でした。マーサ、ゴルド、弟子たち、名もなき市民が、配られた「七つのお約束」を当たり前に守り、街は“ひとりで歩きだして”いた。


薬師が身を削ってすべてを背負うのは、いちばん危うい医療。本当に強い街は、薬師がいなくても歩ける――この作品の「育てる」テーマが、結実する回です。


立ち直った彼女は、ついに疫病の“根”へ。すべての線が、枯れゆく南の森へ収束します。次回、第五十一話「森が、枯れていく」。

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