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第49話:ヴァイス、と呼んでくださいまし

 ひとしきり泣いて、私は少し落ち着いた。目もとが腫れているのが、自分でもわかった。


 ヴァイスが水差しから湯冷ましを注いで、差し出してくれた。塩のかすかな味がした。……この人、覚えたのだ。泣いたあとも、脱水になる。私が病人にしていたことを。


「……お見苦しいところを、お見せいたしました」


「見苦しくなど、ない」ヴァイスは短く言った。「貴女がはじめて、俺に弱いところを見せた。……俺は、それがうれしい」


 不器用な、けれど、まっすぐな言葉だった。この人はいつも飾らない。飾らないから、まっすぐ胸に届く。


 ヴァイスは少し間を置いて、それから、ぽつりと言った。


「覚えているか。冬の、雪祭りの夜。俺は貴女に言ったな。……『ヴァイスでいい』と。閣下ではなく、名で呼べ、と」


 覚えていた。あの夜、彼はそう言って、それから「春になったら、話したいことがある」と言葉を濁したのだった。冬が過ぎ、春が来て、けれど、疫病がすべてを押し流していた。


「あの約束、ずっと果たされないままだ」ヴァイスは少し照れたように目をそらした。「だから……もう、いいだろう。閣下は、やめてくれ」


 私は、その、そっぽを向いた横顔を見つめた。五年前、毒に蝕まれた身体で、それでも領地を背負い、痛みを部下に隠しつづけた、この人。私が倒れかけたとき、いちばんに駆けつけて抱きとめてくれた、この人。


 名を呼ぶ。それだけのことが、こんなにも大きい。呼べば、何かが変わってしまう。……いいえ。もう、変わっているのだ。とっくに。あとは、私がそれを認めるだけで。


 私は、そっと、口を開いた。


「……ヴァイス、さま」


 はじめて、その名を、呼んだ。


 ヴァイスの耳の先が、ほんのり赤くなった。仏頂面の巨躯の、その、意外なほど子どもっぽい反応に、私は涙のあとの顔で、思わず微笑んだ。


「……ああ」ヴァイスはぶっきらぼうに、けれど、どこか噛みしめるようにうなずいた。「それで、いい」


  *


「話したいこと、というのは」私が尋ねると、ヴァイスは首を振った。


「……今は、言わん」


「まあ。ずるうございます」


「疫病が終わったら。街が元に戻ったら。……そのときに、ちゃんと言う」ヴァイスはまっすぐに私を見た。「だから――それまで、貴女は生きていてくれ。無理をして倒れたりせず。俺の話を聞くために」


 それは、遠回りな、けれど、この人らしい、いちばん優しい引き止め方だった。生きていてくれ。私の話を聞くために。――そのために、休め、と。


 命令なら、きっと聞かなかった。道理なら、きっと言い返した。けれど、この頼み方には、返す言葉が見つからなかった。


 私は、うなずいた。今度は、素直に。


「わかりました。……生きて、この街を見届けます。ヴァイスさまのお話も、ちゃんと伺います」私は続けた。「ただし、ひとりで背負うのは、やめにいたします。リタに、弟子たちに、グレタ婆さまに、街のみなさまに――そして、あなたに。少しずつ頼ります。それが、いちばん賢い力の使い方だと、やっとわかりましたので」


 ひとりで抱えていた荷を下ろす。誰かに分けて持ってもらう。前世では、ついにできなかったこと。それを、この辺境で、私ははじめて覚えようとしていた。


「お薬は、嘘をつきません」私は微笑んだ。「そして、頼ることも――嘘ではございません。ちゃんと効くのですね。心にも、身体にも」


「……効くとも」ヴァイスがめずらしく、冗談めかして返した。「なにせ、処方したのは、この国いちばんの薬師の言いつけを破った男だからな」


「まあ。それは、処方ではなく、盗み書きと申します」


 ふたりで少しだけ笑った。泣いたあとの笑いは、湯上がりの白湯のように、身体にやさしく沁みた。


 朝、領主館を出るとき、ヴァイスは馬車を出すと言って聞かなかった。歩ける距離だ、と言っても聞かなかった。……守られる、というのは、少しくすぐったい。けれど、悪くない。馬車の窓から見た街には、竈の煙がいつもどおり立ちのぼっていた。私が眠っていたあいだも、街はちゃんと回っていた。


 診療所に戻ると、リタが飛びついてきた。それから、泣いて、怒って、また泣いた。ごめんなさい、と、今度は声に出して言えた。


 窓の外、東の空は、もうすっかり明るい。疫病のいちばん高い波は越えた。ここからは、退いていく波を見送る戦いだ。私はもう、ひとりではなかった。


恋の、いちばん大きな山の後半です。第二十九話・雪祭りの夜に交わした「ヴァイスでいい」の約束が、ついに果たされました。はじめて彼の名を呼ぶセラフィーナと、耳の先を赤くするヴァイス。巨躯の辺境伯の、意外に子どもっぽい反応は、書いていていちばん楽しいところでした。


そして「話したいこと」は、あえて、今は言わない。「疫病が終わったら、ちゃんと言う。だから、それまで生きていてくれ」――この人らしい、いちばん優しい引き止め方です。頼ることも、ちゃんと効くお薬。セラフィーナは、ひとりで背負うのを、やめはじめます。


次回、第五十話「街が、ひとりで歩きだす」。


――ブックマークと☆をいただけましたら、この二人の歩みを見守る灯りにさせてください。ゆっくりですが、必ず、進みます。


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― 新着の感想 ―
主人公の心のあり方がとても繊細に描かれているなと思った! 少し善人過ぎると思いつつも主人公の幸せを願わずにはいられない気持ちでふ。
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