第47話:先生が、倒れた
疫病の波は、その日、いちばん高いところに達した。
運びこまれる病人は朝から途切れず、隔離病棟はあふれた。廊下にまで筵が敷かれる。煎じ薬の鍋は六つ、休みなく煮え、それでも追いつかない。私は乳鉢を手放さず、薬を煎じ、飲ませ、また煎じた。もう幾日まともに眠っていないのか、数えるのもやめていた。
朝、顔を洗ったとき、鏡の中に知らない女がいた。落ち窪んだ目。乾いた唇。……ああ、これは脱水の顔だ。そう、診立てだけはできた。診立てだけして、私は鏡から目をそらした。
指の感覚が遠い。目の前の景色が、時おり、ぐらりと傾く。それでも、私は手を止めなかった。止めれば、次の病人が死ぬ。エルサのように。だから、動きつづけた。
「師匠……」
リタが私の顔を見て青くなっていた。この子の目には、私の“色”が視えている。
「師匠の色が……金色が、どんどん、薄くなってます。灰色が、混じってきてる。……病人の人たちと、おんなじ色に、なりかけてる。師匠、お願い、休んで。少しだけでも」
「大丈夫、ですわ」私は笑ってみせた。うまく笑えたか、わからなかった。「まだ動けます。……ほら、リタさん、次の患者を」
リタの目に涙が盛り上がった。けれど、私はそれに気づかないふりをした。気づいてしまえば、崩れてしまう。前世で、そうやって崩れて死んだのだから。
ノエルが椀を持ってきた。手をつけなかった。ユリウスが記録の手を止めて、何か言いかけた。目で制した。グレタの姿が見えたときだけ、少し身構えた。あの人にだけは、嘘の笑みが通じない。……グレタは遠くから、私をじっと見ていた。
昼をまわったころ、白札がまた三枚増えた。快方の数字は、たしかに伸びている。街の竈は今日も水を煮て、手は洗われ、陣立ては崩れていない。……崩れかけているのは、それを組んだ私のほうだった。
夕刻の検温の列に、ふらつく足で立った。爪を押す。皮膚をつまむ。数える。私の指は、まだ正しく動く。動く指だけを信じることにした。ぐらつく足のことは考えない。考えなければ、ないのと同じ――そんなはずが、ないのに。
*
前世の記憶が、濃く押し寄せてくる。
白い蛍光灯。積み上がった仕事。まだ大丈夫、あと少し、私さえ頑張れば。――誰も私に「休め」とは言わなかった。私も自分に言わなかった。そうして、ある朝、私は職場の床で倒れた。そのまま、二度と起き上がれなかった。三十五年の働きづめの果てに。
あのときと同じだ。同じ道を、私はまたたどっている。わかっている。わかっているのに、足が止まらない。休むことが、私にはどうしても、罪のように思えるのだ。
薬研の音が遠くなる。近くなる。誰かの声が、水の中で聞くようにくぐもる。手もとの生薬の緑の匂いだけが、妙に鮮やかだった。
(あと、ひと臼。あと、ひとり、救えれば)
乳鉢を持つ手が震えた。景色が、白く飛んだ。
*
夕暮れ。街の見回りを終えたヴァイスが、隔離病棟に駆けつけてきた。リタが泣きながら彼を呼んだのだ。
「閣下! 師匠が、師匠が、変なんです! いくら言っても、休んでくれない! このままじゃ、師匠が――!」
馬を飛ばしてきたのだろう。外套に夕闇と土埃をまとったままだった。
ヴァイスが病棟に飛び込んできた、その瞬間だった。
私の手から乳鉢がすべり落ちた。がしゃん、と乾いた音。それを拾おうと伸ばした手が、宙をつかんだ。
視界が、ぐるりと回った。床が、天井が、入れ替わる。ああ、また、だ。前世の、あの朝と同じ。私は倒れる――そう思った、けれど。
冷たい床に、身体は届かなかった。
力強い腕が、崩れ落ちる私を抱きとめていた。剣だこのある、大きな手。ヴァイスの腕だった。
「――貴女という奴は」
耳もとで、絞り出すような低い声がした。いつもの、ぶっきらぼうな声ではなかった。怒りと、恐れと、それから何か、もっと深いもののこもった声。
私はその腕の中で、意識が遠のいていくのを感じた。最後に見えたのは、私を見下ろすヴァイスの、いつになく必死な顔。リタの泣き声が遠くでしている。ごめんなさい、と思った。声にはならなかった。
(ああ……今度は、床に倒れずに、すんだ……)
そんなことを思いながら。私の意識は、闇に沈んでいった。
ついに、この時が来てしまいました。疫病のピーク、限界を超えて動きつづけたセラフィーナが――倒れます。リタの目には、彼女の“金色”が、病人と同じ灰色へ近づいていくのが、視えていました。
前世で「働きすぎて死んだ」記憶が、彼女の足を止めさせない。休むことが、罪のように思えてしまう。同じ道を、また、たどってしまう……。
けれど今度は、床に倒れる前に、ヴァイスの腕が抱きとめました。「貴女という奴は」――絞り出すようなその声に、こもったものは。次回、第四十八話「今度は、守られてもいい」。物語、最大の山です。




