第46話:王都に、届いた処方
私は王都へ、二つのものを送った。
ひとつは、南方熱の治療と予防の、すべての手順書。代替生薬の配合、隔離の作法、衛生の七か条。むずかしい言葉を避け、その土地の草でも作れるよう、理をひとつひとつ書き添えた。
書きながら、何度も手を止めて考えた。王都に白柳は乏しい。ならば、城壁沿いのニガヨモギで代えられる。その旨を書き足す。薬を送るのは、一度きりの施し。理を送るのは、届いた先で育つ種だ。封鎖された門の向こうにも薬師はいる。その手に、種を渡したかった。
もうひとつは、小さな包み。王太子アロイス殿下の持病を抑える、特注薬そのものだった。かつて私が「婚約者の務め」として毎月届けていた、あの小瓶の中身。弟子たちが局を去って以来、また途絶えていた薬。
――処方なら、二年前に渡してある。ご病名も、八年ぶんの経過も、調合の全手順も。材料の規格から煮詰めの引き際まで、図解を添えて医薬局の棚に収めてきた。
けれど、あのとき私は次官に申し上げたはずだ。手順書どおりに作っても、最初の十回は必ず失敗します、と。だから人を寄越してください、と。そうして、ひと冬かけて仕込んで返した二人。――その二人は、いま、私の隣にいる。局に暇を願い出て、雪解けの泥を頭からかぶって、この街へ来てしまった。
(王都の棚には、紙だけが、残っておりますね)
紙は、人の手がなければ薬にならない。二年前に私が申し上げたことが、いま、そのまま王都で起きている。だから今度は、紙ではなく、薬そのものを包んだ。
包みを結びながら、少しだけ迷った。私を捨てた人の、薬だ。……いいえ。薬師の帳面に、患者の貸し借りは書かない。痛む胸が、そこにある。ならば、送る。それだけのことだ。
封鎖された王都へ、山の民の抜け道を通して、それは静かに運ばれていった。
*
王都、王宮の奥。
王太子アロイスは、また胸を押さえてうずくまっていた。聖女の祈りも、もう効かない。侍医団は、この発作の正体を知っている。二年前に渡された記録に、病名も引き金も書いてある。棚には手順書もある。――知っていて、なお、誰の手も届かなかった。
そこへダレルが、辺境からの包みを届けた。
「殿下。北の薬師、グランヴェル嬢より……いえ、薬師セラフィーナ殿より、御身の持病の処方が」
「……あの女から、だと」
アロイスは包みをしばらく見つめていた。受け取る資格が、自分にあるのか。その迷いが、痛みの波に押し流される。半信半疑で、その薬を口にした。
すると――幾刻もしないうちに、あれほどの痛みが、すうっと退いていった。祈りのように、いっとき撫でるのではない。根から、発作そのものが鎮まっていく。
「……なんだ、これは」アロイスは呆然とつぶやいた。「私はこの胸の痛みと、生まれてからずっと付き合ってきた。誰も治せなかった。それを……あの女は、当たり前のように抑えていたのか」
惜しい人を手放した、という話では、もうなかった。それは二年前に思い知っている。
――この痛みは、治るものだったのだ。
生まれてから今日まで、治らぬものと思い定めて、そのために諦めてきたことが、いくつあっただろう。剣も、遠乗りも、政の場に長く座ることも。発作を言い訳に、手を伸ばさずにきたものが。治らぬと信じ込んだ人間は、いつのまにか、諦めることを性根にする。
驕っていたのではなかった。諦めていたのだ。そして、諦めていることを、驕りで隠していたのだ。
「私は……とんでもないものを、手放したのだな」
アロイスの声には、もう、かつての驕りはなかった。
同封の手順書は、その日のうちに王都の薬師たちへ写しが配られた。祈りに退けられていた「下々の手仕事」が、王太子の名で、王都の隅々へ広がりはじめた。水を煮る火が、封鎖された都の中に、ひとつ、またひとつ灯っていく。
その写しの一枚は、大聖堂の聖女のもとにも届いた。
ミレーユは蝋燭の灯りの下で、手順書を繰り返し読んだ。水は煮て飲む。手は洗う。病人は分けて、守る。――自分が司祭たちに退けられた、あの言葉が、理を添えてひとつひとつ書いてある。祈りを否むのではなく。祈りの届かぬところを、静かに埋めるように。
(この方は、病の「根」を見ておられる。わたしが撫でることしかできなかった、水底の石を)
会いたい、と思った。教えを、乞いたい。聖女が、薬師に。……その願いが、どれほど教会の掟に背くものかを知りながら。
*
同じころ、宰相の執務室。
老いた宰相は、辺境の薬師セラフィーナから届いたあるものを、机に広げていた。山の民の荷に紛れていた、あの納品の控えの写しだった。
「……儂の目に狂いがなければ、じゃ」宰相は白い眉を寄せた。「バルテルミーは、疫病が出る前から南方産の解熱剤の原料を、途方もない量、買い集めておった。医薬局の帳簿と突き合わせれば――こやつ、病が来るのを知っておったな」
宰相は、かつての毒物検品調書と、この買い占めの控えを並べて置いた。ばらばらだった点が、ゆっくりと線でつながりはじめる。命を質に取った男の、たくらみの輪郭が。
「……儂は、なぜ、この男を今日まで野放しにしておいたか」
宰相は白い眉の下で目を伏せた。誰に問うたのでもない。三十年、この執務室で自分に問いつづけてきた問いだった。
「医薬局長は、王家の薬を丸ごと握る職じゃ。疫病のさなかに、その首を挿げ替えてみよ。都じゅうの薬が、その日から止まる。誰がどの棚に何を積んだか、あやつしか知らぬようにしてあるからの。……あやつは、それを知っておる。知っておるから、堂々と盗みおるのじゃ」
噂は幾度も耳に入っていた。買い叩き。検印の貸し借り。消える生薬。けれど、噂は罪状にならない。手を出せば、病人が死ぬ。手を出さねば、病人が死ぬ。老人はその天秤の前で、二十年、動けずにいた。
「分かっておって、動けなんだ。それが、儂の罪よ」
宰相はひとつ、深く息を吐いた。それから、皺の寄った両の掌を机の上でそろえた。
「じゃが――証が、揃うたなら。話は、別じゃ」
「グランヴェルの嬢は、薬だけでなく……こんな刃まで送ってきおったか」宰相は苦々しく、そしてどこか愉快そうに笑った。「まったく、とんでもない娘じゃわい」
王都は、もはや辺境なしには立ちゆかなかった。薬も、処方も、そして――巨悪を暴く証さえも。すべてが、あの、追放した薬師の手から届いていた。
王都パートです。セラフィーナが送ったのは、疫病の手順書と――王太子アロイスの、持病の特注薬そのもの。処方も病名も、二年前に第十三話で渡してあります。棚に紙はある。それでも作れない。「手順書どおりでも最初の十回は必ず失敗します」――あのとき彼女が次官に突きつけた言葉が、そっくりそのまま、王都に返ってきました。紙は、人の手がなければ、薬になりません。
そして宰相の手には、買い占めの尻尾が。ばらばらだった点が、線でつながっていく――巨悪を暴く証さえ、辺境から届く。
なぜ誰も、あの男を捕らえないのか。老宰相自身が、いちばん長く、その問いの前に立っていました。医薬局長の首を、疫病のさなかに挿げ替えれば、都じゅうの薬が止まる。手を出しても、出さなくても、人が死ぬ。二十年動けなかった天秤が、証拠という重りひとつで、ようやく傾きはじめます。
けれど、その立役者が、辺境で限界に。次回、第四十七話「先生が、倒れた」。ついに、山場です。




