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第44話:救えない命も、ございます

 疫病の波が、いちばん高くなった日。


 隔離病棟は、うめき声で満ちていた。運びこまれる病人は絶えることがない。私と弟子たちは、ほとんど眠らず、薬を煎じ、水を飲ませ、汗をぬぐいつづけた。


 その中に、小さな女の子がいた。名を、エルサといった。まだ六つ。母親が織物長屋でいちばん最初に倒れた、その家の子だった。


 熱が軽かったころ、エルサは寝台の上で、よくしゃべる子だった。先生の匙は、魔法の匙? と訊くから、いいえ、ただの匙です、と答えると、ふうん、でも、へいき、あたし、にがいの、のめるもん、と胸を張った。


 そうして苦い薬を、いっしょうけんめい飲んでみせた。飲めたら、褒める。褒めると、笑う。その繰り返しを私は、この波のさなかの小さな灯りのように思っていた。


 私はこの子につきっきりだった。手を尽くした。代替の解熱剤も、いちばん良いものを選んだ。水も匙で根気よく飲ませた。熱はいっとき下がった。もう峠は越えた――そう思った。


 けれど。


 夜半から、熱は静かに戻った。小さな身体は、もう汗をかく力さえ残していなかった。飲ませた水が、喉の奥で行き場をなくす。私は手のかぎりを尽くした。尽くしながら、わかってしまった。薬師の手には、わかってしまう瞬間がある。


 明け方、エルサの小さな手が、私の指を、ふっと放した。


 あんなに手を尽くしたのに。もう大丈夫だと思ったのに。この子の命は、私の指のあいだから静かにこぼれていった。


「……エルサ、さん」


 私は、その冷たくなっていく手を握りしめた。何も言えなかった。にがいの、のめるもん、と笑った声が、まだ耳のそばに残っているのに。


  *


 私は病棟の裏に出て、ひとり、うずくまっていた。


 夜明けの空気は、冷たく澄んでいた。街のどこかで鶏が鳴いている。世界は何ごともなかったように朝になっていく。その、あたりまえさが、こんなにこたえるとは。


 救えなかった。私の薬は、この子には間に合わなかった。――なぜ。どこで間違えた。もっと早く水を断っていれば。もっと原料があれば。もっと私が、眠らずに動いていれば。


 前世の記憶が、暗い底から湧いてくる。あの、白い蛍光灯の下。私が休んだあの夜。看きれなかった、誰かのこと。――お前が、休んだからだ。お前が、力を抜いたからだ。


 自分を責める声が、耳の奥で鳴りやまなかった。


「先生」


 背後にグレタ婆さまが立っていた。しわだらけの手で、私の肩にそっと触れる。


「あんた、いま、自分を責めてるね。もっとやれた、もっと眠らずに、ってさ」


 私は答えられなかった。図星だった。


「三十年、薬をやってきて、あたしにも山ほど、救えなかった命があるよ」グレタは静かに言った。「ひとつ、ひとつ、ぜんぶ覚えてる。忘れやしない。……でもね、先生。薬師が救えない命に、いちいち身を削ってたら――次の命に間に合わなくなる。あんたが倒れたら、明日のエルサが、また死ぬんだよ」


 わかっている。頭では、わかっている。けれど、私の心はそれを受け入れられなかった。休むことは、私にとって、誰かを見捨てることと同じだった。前世で、そう刻みつけられて死んだのだから。


「……大丈夫でございます、グレタ婆さま」私は立ち上がった。「まだ動けます。次の病人が待っています」


 グレタが痛ましそうな目で私を見た。けれど、私はその視線を振り切って、また病棟へ戻っていった。


 戻る廊下でリタとすれちがった。この子も泣きはらした目をしていた。エルサと寝台ごしに、よくしりとりをしていたから。


「師匠……エルサ、あたし、色、視えてたのに。ゆうべ、灰色が濃くなってくの、視えてたのに。……あたしの目、なんの役にも」


「リタさん」私はその肩を両手で、そっと包んだ。「あなたの目のおかげで白札になった人が、今日だけで九人います。……九人です。それを、忘れないで」


 この子に言えるのなら。どうして同じ言葉を、自分に言えないのだろう。


  *


 エルサの寝台は、もう次の病人のために、白い布に替えられていた。それでいい。それが正しい。正しいのに、その白さが目に刺さった。


 薬を煎じる手が少し震えていた。目の奥が、じんと痛い。それでも、私は手を止めなかった。止めれば、あの責める声に呑まれてしまう気がした。


(あと少し。あと、ひと臼。私さえ動きつづければ、次の命は救える)


 その「あと少し」を、私はもう何百回繰り返しただろう。身体の底が静かに軋みはじめていることに――気づかぬふりを、しつづけていた。


手を尽くしても、届かない命があります。小さなエルサを看取れなかったセラフィーナは、前世の「休んだから、救えなかった」という古い傷ごと、自分を責めてしまう。休むことが、誰かを見捨てることと同じに思えてしまう――前世で過労死した彼女の、いちばん深い痛みです。


「あんたが倒れたら、明日のエルサが、また死ぬ」。グレタの言葉は、頭ではわかっても、心には届かない。


その危うさが、いよいよ限界へ。次回、第四十五話「三十年前の、抜け道」。原料危機に、反撃の一手が。


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