第43話:対価は、二年ぶんでございます
嵐の前の、つかのまの静けさ。その日は、新しい病人がひとりも出なかった。
隔離病棟の白札は増えつづけている。快方の印だ。封じた井戸のまわりでは、ユリウスの地図の赤い印が、ぴたりと止まっていた。陣立てが効いている。ほんの一日でも息をつけるのは、街ぜんたいが、それぞれの役目を守ってくれているからだった。
私は久しぶりに、診療所の裏で茶を淹れた。リタと、グレタ婆さまと、三人でひとやすみ。
「師匠、これ、なんの茶ですか。……うわ、にがい」リタが顔をしかめる。
「カミツレの、出がらしですわ。……薬草が、もったいなくて、つい」
「先生は、ほんとに、貧乏性だねえ」グレタがからから笑った。「公爵令嬢さまが、出がらしの茶を、ありがたがってさ」
「令嬢だったのは、前世ならぬ、前の暮らしのことでございます。今は、辺境の、しがない薬屋ですので」
「その薬屋が、王宮から仕事を受けて、街をひとつ、回してるんだから、世の中、わからないもんさね」
三人で、くすくす笑う。こんな、なんでもない時間が、張りつめた日々の中では、どんな高価な滋養剤よりも身体に沁みた。春の陽が、裏庭の干し草の匂いをあたためている。
*
そこへ、ヴァイス辺境伯が往診にやってきた。
彼の、五年前の毒の後遺症――左手の麻痺と、慢性の痛み。その根治治療も、疫病の合間を縫って続けている。月に一度、じっくりと時間をかける、長い治療だった。
私は彼の左手を取り、指の一本一本を、付け根からゆっくりと揉みほぐしていく。それから、温めた生薬の湿布を、手首の内側に。毒の残りは、焦って抜くものではない。巡りをよくして、身体が自分で押し出すのを、根気よく手伝う。
「今日で、五回目ですわね」私は彼の左手に、そっと触れた。「痺れの引きが、よくなっています。順調でございます」
「……そうか」ヴァイスはぶっきらぼうにうなずいた。それから少し迷って、付け足した。「……このごろ、剣の柄が、しっかり握れる。夜中の痛みも、減った」
「まあ。それを、先におっしゃってくださいまし」
この人は、快方の報告が、いちばん後回しになる。私は帳面に丁寧に書きつけた。握力、戻りつつあり。夜間痛、軽減。……この一行がどれだけうれしいか、この患者どのは、たぶん知らない。
「で。この治療の、対価は」ヴァイスが居住まいを正した。「俺は、借りを作らん主義だ。いくらだ」
いつもの、「対価は言え」だった。私は少しいたずら心を起こした。
「では、対価を申し上げます。――閣下には、この治療を、あと二年、最後の一回まで、きちんと受けていただきます。途中で投げ出したり、痛みを我慢して来なくなったり、なさらないこと。それが、対価でございます」
ヴァイスが、きょとんとした。
「……それは、対価ではなく、治療の続きだろう」
「あら。二年ものあいだ、月に一度、必ずわたくしのもとへ通っていただく。りっぱな対価でございましょう?」私は澄まして言った。「閣下のお身体を、あと二年、わたくしがお預かりする、ということでございますので」
ヴァイスの、いつも仏頂面の頬が、かすかに赤らんだ。二年ぶん、この薬師のもとへ通う――その言葉の裏にあるものに、鈍いこの人でも、さすがに気づいたらしい。
「……ふん。そういう、対価の取り方も、あるのか」
そっぽを向いた彼の、口の端がゆるんでいた。
帰りぎわ、ヴァイスは戸口でふと足を止めた。
「……二年後、この治療が終わったら」低い声だった。「そのときは、俺のほうから、別の対価の話をする。……覚えておけ」
それだけ言って、返事も待たずに馬にまたがる。……別の対価とは、なんの話だろう。問い返す間もなかった。ただ、耳の奥に、その低い声だけが、妙に残った。
その様子を、リタが目ざとく見つけて、にやにやしている。
「師匠、閣下……なんか、あやしい」
「リタさん。お茶の、おかわりはいかが」私はしれっと話を変えた。グレタが隣で、肩を揺らして笑っていた。
*
あたたかな、笑い声。けれど――窓の外、南の空には、いつのまにか黒い雲が重く垂れこめていた。
リタが、ふと笑いをやめ、その空を見た。
「……師匠。南の色が、さっきより、濃くなってます。すごく、大きな、どす黒い色。……なんか、来ます。すごく、大きいのが」
私は茶器を置いた。笑いの余熱が、すっと引いていく。薬を数え、寝台を数え、湯を沸かす。できる備えを、頭の中で並べ直す。
静けさは、嵐の前ぶれだった。疫病の、いちばん高い波が――もう、すぐそこまで迫っていた。
張りつめた疫病編の、ひとやすみ回です。出がらしの茶を貧乏性でありがたがるセラフィーナ、リタとグレタのにぎやかな笑い声。そしてヴァイスの「対価は言え」に返した答えは――「あと二年、月に一度、必ず通うこと」。お身体を、二年、お預かりします、と。鈍いヴァイスも、さすがに赤面でした。
“対価ギャグ”が、少しずつ私的なものへ変わっていく。二人の、ずいぶんゆっくりした距離の詰め方を、楽しんでいただけたら。
けれど、静けさは嵐の前ぶれ。リタの目が、南に“すごく大きな、どす黒い色”を捉えました。次回、第四十四話「救えない命も、ございます」。
――ブックマークと☆は、二年分の治療費の足しに……とは、申しません。作者の夜なべのお茶代に、ひとつ、どうぞ。




