第42話:僕の、いちばん得意なこと
弟子のユリウスが、限界に来ていた。
貴族の子である彼は、王都では学院の次席だった。頭の出来には自信がある。だからこそ「記録係」という地味な役目を、心のどこかで軽んじていたのだろう。もっと華々しい、薬師らしい仕事を――そんな慢心が、疲れきった顔ににじんでいた。
その朝も、ユリウスは病棟の隅の小机で、夜のあいだの記録を書き写していた。リタは病人の色を視て回り、ノエルは薬を配って歩く。自分だけが紙の前から動かない。ペンを持つ手が、時折、止まる。
「師匠。僕は……こんな、書き取りばかりで。もっと、直に、病人を診るべきでは」
私は彼の帳面を手に取った。誰が、いつ、どこで倒れたか。几帳面な字と細密な挿し絵で、びっしりと記されている。熱の上がり下がりが、折れ線で。快方した者と、亡くなった者が、印を分けて。……美しい、とさえ思う帳面だった。
私はそれを、リタの描いた街の地図の上に、そっと重ねた。
すると――病の広がりが、日を追ってどう動いたかが、絵のように浮かび上がった。どの井戸から、どう広がり、どこで止まったか。封じた井戸のまわりで、印が、ぴたりと途絶えている。ユリウスの記録が、病の“流れ”そのものを映し出していた。
「ユリウスさん。これを見て、なにも、感じませんか」
「これは……僕の、記録が」ユリウスの目が見開かれた。
「あなたの記録がなければ、私たちは、どこに手を打てばいいかわかりません。病を直に診るだけが薬師ではありません。病の“かたち”を、誰よりも正確に描く。それは、あなたにしかできない仕事です。――華々しくない? いいえ。これほど街を救う仕事は、そうありません」
前世の白い職場でも、そうだった。誰が、何を、いつ飲んだか。地味な記録の一行が、命を何度も間違いから救った。書き残す者は、いつも目立たない。けれど、書き残された一行は、書いた者より長く人を守る。
ユリウスはしばらく、自分の帳面を見つめていた。そして、はじかれたように言った。
「……僕は、記録を極めます。この街の病を、一滴残らず描ききってみせます。それが、僕の、いちばん得意なことなら」
慢心が折れた場所から、本物の芯が顔を出した。
その日から、ユリウスの帳面は変わった。書き取るだけでなく、問いを立てはじめたのだ。なぜ、この筋の家だけ熱が軽いのか。なぜ、この井戸は封じても印が絶えないのか。記録が、ただの控えから、病を追う猟犬になった。
「師匠。ここ、変です」数日後、ユリウスは地図の一点を指した。「封じたはずの井戸の筋で、まだ新しい熱が。……どこかに、記録に載っていない水の道があるのかもしれません」
その問いが、のちに大きな糸口になる。このときは、まだ誰も知らない。
*
一方、平民出のノエルは、めきめきと頭角を現していた。
下町の薬種屋育ちの彼は、病人への声のかけ方が抜群にうまい。怖がる子どもを笑わせ、頑固な年寄りに薬を飲ませ、不安な母親を安心させる。薬の効き目は、飲んでもらえて、はじめて出る。ノエルは、その「飲んでもらう」を、誰よりも上手にやってのけた。
薬を吐き出してしまう幼子には、蜂蜜をひと垂らし。苦い、と顔をしかめる年寄りには「これが飲めりゃ、孫の祝いまで長生きでさあ」と、笑い話をひとつ。同じ薬が、ノエルの手を通ると、なぜか、するりと喉を通る。
「ノエルさん。あなたの声かけは、立派な処方です」
「へへ、そうですかね」ノエルは照れて頭をかいた。「おれ、むずかしい調薬は、まだ下手くそだけど……人に薬を届けるのだけは、下町で鍛えられたんで。……あ、いや、師匠のおかげ、です」
思わず「師匠」と言いかけて、慌てて言い直す。その素直さが、この子の、いちばんの薬だった。
*
二人の弟子が、それぞれの光る場所を見つけた。二人がこの店に来た冬、私が「まず、買い取り窓口で目を鍛えなさい」と言った、あの地味な修業が、今、実を結んでいた。育てたものが育って、また誰かを支える。成長の循環だった。
夜、病棟の灯りの下で、四人の姿を、そっと見渡す。地図に線を引くユリウス。寝台のあいだを回るリタ。年寄りを笑わせているノエル。……ふた月前まで、この病棟は私ひとりの両手で支えるつもりだった。いまは、八本の手がある。
けれど、それでも――病人の増える速さには、まだ追いつかない。弟子が育っても、私は休めなかった。いや、休むという発想が、私の中にはどうしても生まれてこなかった。
(あと少し。あと、ひと臼。私さえ動きつづければ)
その「あと少し」が、いつか私自身を崩すことも知らずに。
弟子たちの、覚醒回です。「記録係」を軽んじていた貴族の子ユリウスは、その帳面こそが病の“流れ”を映す宝だと気づき、平民のノエルは、下町仕込みの声かけで薬を人に届ける名手になる。第十六話の、あの地味な修業が、ここでいっせいに実を結びます。
「育てたものが、育って、また誰かを支える」。この作品のいちばん大事なテーマのひとつを、どうか見届けてください。
けれど当のセラフィーナは、休むことを知りません。その危うさが、静かに近づいて――次回、第四十三話「対価は、二年ぶんでございます」。張りつめの、ひとやすみ回です。
――☆の評価は、弟子たちの筆と帳面代に。あの子たち、今日もどこかで、記録を書き溜めておりますので。




