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第39話:眠らない人を、眠らせる薬はありません

 三日、まともに眠っていなかった。


 病人は増えつづけ、代替の解熱剤は、いくら作っても足りない。私は乳鉢を手放せず、夜通し草をすりつづけていた。とん、とん、と杵の音が、頭の中で、遠く近く揺れる。指の感覚が、だんだん遠くなる。それでも、手は止められなかった。


 手もとの帳面には、今日の数字が並んでいる。新しい病人、十三。快方、七。危うい者、三。……亡くなった者、一。この最後の数字を、これ以上増やさないために。私の両手は、まだ動かせる。動かせるのだから、動かすべきだ。


「……まだ、作れます。あと、ひと臼。それから、もうひと臼」


 誰にともなく、そうつぶやいていた。前世の記憶の奥で、白い蛍光灯の下、私はいつも、こう言っていた。まだ大丈夫。あと少し。あの人の分も、私が。――そうして、倒れるまで気づかなかった。


 視界の端が、ちかちかと白く瞬く。これは、よくない徴だ。薬師として知っている。知っているのに、手が止まらない。


  *


 夜半、診療所の戸が、静かに開いた。


 ヴァイス辺境伯だった。手に、湯気の立つ椀を持っている。


「食え」ぶっきらぼうに椀を私の前に置く。「厨のカイルに作らせた。……貴女は、どうせ、また食っていないだろう」


 椀の中は、鶏と麦の粥だった。細かく刻んだ生姜が、湯気の中でほのかに香る。消化がよく、身体を温める。……病人に出す粥の組み立てだった。この人は、私に出す一椀にまで、そういう指図をしたらしい。


「閣下。お気遣いは、ありがたいのですけれど、今は、手が」


「手は、止めろ」


 低い、けれど有無を言わせぬ声だった。ヴァイスは私の乳鉢を、そっと押さえた。大きな、剣だこのある手だった。


「貴女は街ぜんたいの脈をはかる。だが、自分の脈は、はからんな」ヴァイスは私の顔をじっと見た。「顔色が、死人だ。……その目、前にも見た。五年前、毒を受けた俺を寝ずに診ていたときの、貴女だ。あのときも、こうだった」


 見抜かれていた。この人はいつも、私が隠しているものを、正面から当ててくる。取り繕う気力も、もう残っていなかった。


「……薬師は、患者を、放っておけないのです」


「知っている。だが、薬師が倒れたら、患者はどうなる」ヴァイスは静かに言った。「眠らない人を眠らせる薬は、ないんだろう。ならば、俺がその薬の代わりをする。――今夜は、俺がここにいる。だから、少し、眠れ」


 その言葉が、張りつめていた糸を、ふっとゆるめた。私は椀を受け取り、あたたかい汁を口に運んだ。身体の芯に、じんわりと熱が戻る。目の奥が熱くなった。


(……ああ。休んでもいい、と言ってくれる人が。前世では、ひとりもいなかったのに)


 まだ大丈夫、と言い続けた、あの日々。誰も止めてくれなかった。いや――止める声を、私が聞かなかったのかもしれない。けれど、いま、目の前のこの人は、私の乳鉢を手で押さえている。声ではなく、手で。


「対価は」私はかすれた声で、いつもの彼の言葉をまねてみた。「……閣下、対価は、いかがなさいますか」


 ヴァイスはめずらしく、少しだけ口の端を上げた。


「借りは作らん主義だ。だが……この借りは、しばらく、返さんでいい」


 それきり、ヴァイスは何も言わなかった。壁際の椅子に腰を下ろし、腕を組んで目を閉じる。眠るでもなく、ただ、そこにいる。


 不思議なものだ。誰かがいるだけで、部屋の空気がこれほど違う。診療所の灯りの下、乳鉢は押さえられたまま。鍋の火は落としてある。今夜だけは、何もしなくていい。


 私は粥を最後のひと匙まで食べた。それから、上着を羽織ったまま長椅子に横になった。目を閉じると、あっけないほど、すぐに眠りが来た。三日ぶりの、底のある眠りだった。


  *


 うとうとと浅い眠りに落ちかけたとき。表が、にわかに騒がしくなった。


 カイルが、青い顔で駆け込んでくる。


「先生! 大変です! 織物長屋で、いちどに、二十人も! みんな、同じ熱を!」


 最初の集団感染だった。ひとりふたりではない。ひとつの長屋が、まるごと。疫病は、ついに街の内側で爆ぜはじめた。


 私は椀を置き、立ち上がった。眠気は、もうどこかへ飛んでいた。それでも、身体の芯には、さっきの粥の熱が、ちゃんと残っている。空の器では戦えない。この人が、それを教えてくれた。


「参ります。――閣下。さっきの薬、たしかに、効きました」


倒れるまで自分を削ってしまう――前世で「働きすぎて死んだ」セラフィーナの危うい癖が、激務のなかで頭をもたげます。それを正面から見抜いたヴァイスの、「今夜は俺がいる。だから眠れ」。“休んでもいい”と言ってくれる人が、前世にはいませんでした。その一言が、彼女の胸に、静かに沁みます。


二人の距離が、また少し縮まって――けれど、そのぬくもりを裂くように、街ではじめての集団感染が。


次回、第四十話「街を、守り抜きます」。第四章、いよいよ章末です。


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