第36話:これは、依頼でございますか
ひとつお詫びを。
第三十一話から第三十五話まで、予約投稿の手違いで、手を入れる前の版を先にお届けしてしまいました。
今は、本来お読みいただきたかった版に直してあります。描写を足したり、場面を書き加えたところもありますので、すでに読んでくださった方も、お手すきのときに、もう一度のぞいてやってください。
どこが変わったかは――読んでのお楽しみ、ということで。すでにお付き合いくださっている皆さまには、お手数をおかけします。
王宮の紋を掲げた馬車が、辺境ノルデンの診療所の前に止まった。
泥にまみれた車輪が、この街道を急いで来たことを物語っている。街道の南には、ヴァイスの兵が敷いた検疫線。それを越えて、王宮はここまで来たのだ。
降り立ったのは、王宮府書記官ダレル。かつて私の納品台帳に判を押していた、あの実務の男だった。硬い官服に身を包み、けれど、その顔には隠しきれぬ疲れがにじんでいた。
「グランヴェル嬢……いや、薬師セラフィーナ殿」ダレルは言い直して、深く頭を下げた。「王宮より、正式の依頼にまいった。南方熱の制圧に、貴殿の知恵をお貸し願いたい」
リタがそばで、はらはらしている。かつて私を追い出した王宮が、今さら頭を下げる。恨み言のひとつも言いたくなるところだ。
断罪の日のことを思い出さないと言えば、嘘になる。大広間の、冷たい視線。読み上げられた、身に覚えのない罪。あのとき、この男は末席で、ただ黙って書きつけていた。
けれど、過ぎたことをいま蒸し返しても、熱にうなされる病人の汗ひとつ引かない。私は静かに問い返した。
「――これは、依頼でございますか。それとも、命令でございますか」
ダレルが、顔を上げた。
「依頼、でございます。むろん」
「では、依頼としてお受けいたします」私はまっすぐに言った。「情で受けるのでも、意趣返しで断るのでもございません。仕事として、条件を申し上げます」
私は指をひとつずつ折った。
「ひとつ、正規の料金を。ひとつ、辺境の薬草を二度と買い荒らさぬこと。適正な取引の約定を、王宮の名で、書面にて交わしていただきます」
名誉の回復も、宮廷への復職も、私は求めなかった。欲しいのは、そんなものではない。ただ、薬師の仕事が薬師の仕事として正しく扱われること。安く買い叩かれた仕事は、いつも、どこかで雑になる。そのしわ寄せは、めぐりめぐって患者の枕もとに届いてしまう。それだけは、させたくなかった。
「……承知」ダレルは震える手で約定に判を押した。それから、ふと口元をゆるめた。「貴殿は、変わられませんな。あの断罪の日も、在庫を暗算しておられた。……王宮は、とんでもない薬師を、みすみす手放したものだ」
その一言だけは、素直に、胸に落ちた。
判を押し終えたダレルに、私は王都の様子を尋ねた。仕事を受けると決めたからには、まず、敵の――いや、病の広がりを知らねばならない。
「王都は、いま、どのような」
「よく、ございません」ダレルは声を落とした。「城下でも、熱を出す者が出はじめました。医薬局は薬を抱えたきり、まともに配ろうとせぬ。大聖堂の祈りも……効いては、戻るばかりと」
やはり、と思う。祈りは症状という波を撫でるだけ。薬は握られて動かない。王都は二重に手当てを失っていた。頭の大きな身体が末端から冷えていくように、この国は、いちばん人の多い場所から病に呑まれかけている。
「わかりました。処方と手順書を、まとめてお渡しします。まずは、水を煮ること。手を洗うこと。それだけでも、王都の熱は半分に減らせます」
ダレルが、すがるようにうなずいた。
*
依頼を受けたはいいが、壁は依然として高かった。
代替の解熱剤は、身近な草で作れる。けれど、その草にも限りがある。街ひとつ、いや、いずれ王都までも支えるとなれば、必要な量は桁が違う。摘んでも摘んでも追いつかない。
「グレタ婆さま。この辺りで、白柳やカミツレがまとまって採れる場所は」
「そりゃ、南の森さ」グレタは言って、けれど、ふと眉を曇らせた。「……いや、待ちな。あの森が、このごろ、おかしいんだよ」
「おかしい、とは」
「薬草が育たなくなってる。去年まで、あんなに茂ってた白柳が、今年は、皮を剥ぐと、中がすかすかでね」グレタの声が低くなる。「まるで――森ぜんたいが痩せていくみたいに」
私は帳面を繰る手を止めた。背筋を、あの南風がまた這った。
薬が消えたのは、バルテルミーの買い占めだけではない。もっと根深いところで――薬草を生む森そのものが弱っている。買い占めと、森の異変。ふたつの飢えが、南から静かに忍び寄っていた。ひとつは、人の欲。もうひとつは――まだ、正体が見えない。
「グレタ婆さま。……その森を、いちど、見にいかなければなりませんね」
窓の外、南の空の下で、いつもは緑濃いはずの森が、心なしか褪せて見えた。まるで、大地そのものが静かに熱を出しているように。
恨みでも、意趣返しでもなく。かつて自分を追い出した王宮からの救援を、セラフィーナは「仕事として」受けます。求めるのは名誉回復ではなく、薬草を二度と買い荒らさぬという約定ひとつ。彼女の“プロの距離”を、いちばん書きたかった回です。
けれど、代替生薬にも限りがある。しかもその産地、南の森に、草が育たぬ不気味な異変が……。買い占めだけではない、もうひとつの飢えの正体とは。
次回、第三十七話「リタの目には、視えるもの」。あの子が、長く隠してきた秘密を打ち明けます。




